人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思考の及ばない地点

2024-06-08 10:20:16 | 哲学・思想
哲学的な精神とは、言うまでもなく自分で主体的に考える、内省する精神と言えるでしょう。
だからそれに照らせば、デキアイの宗教やスピなどにみられる、あの先生がそう言っているから、とか経典にそう書いてあるからというだけで、安易に追従してしまうような生き方などは問題外なのです。
いや、すべての真の宗教、スピ、霊性の道においてもそう言えるでしょう。それはあなた自身が直接関わるものなのだから!...取り分け哲学的な精神態度にはそれが要求されるということです。
その中で霊性の道に通じた哲学者(多く宗教哲学者と呼ばれる)などは、ある宗教思想を批判して、”あれはまだ究明が不十分である、ぎりぎりのところまで徹しきれていない!”、などと言ったりします。
このぎりぎりの地点とはどこのことなのでしょうか?
思考して、どこまでも思考を深めて行って、どこかに行き着くのでしょうか?
それは、正に思考の及ばない地点ではないでしょうか?...分別智の絶たれる地点。
真の宗教、霊性の道に通じた哲学者は、思考出来ない世界があることを知っているのでしょう。
その思想は常に直感的な霊性に根差していて、現実に活かされない、抽象観念に浮いたりしません。そうした霊性の土台から切り離れるから観念に浮いてしまうのです。
よく宗教で”思考は捨てなければならない!”、などと説いているのは、先の際について言っているのでしょう。
それがある地点で絶たれなければ、直接体験の道は開かれないのは確かなことですが、”無くてもいい、無くさなければならない”、ということとは勿論違います。
哲学的とは言わないまでも、その道を導くものこそ、内省的な思考精神なのではないでしょうか?
内省的というのは、何も能動的に思考をこねくり回すようなことではありません。
内省的な思考そのものを感じるというようなこと...それ自体、瞑想的な意識状態になっているようなことです。
これは、普通に考えられている思考の源とも言うべき、知性と感性が切り離されていない意識世界から来るものです。
これは、霊性の道にあって不可欠のものと言いたい!...表層の思考の土台であり、道標となるものです。
だから、ただ考えられているだけの思想では不十分なのです。
それだけでは、どこにも行き着くところが無い!、オチが無い!...(これは、表層的な論理的結論みたいなことを言っているのではありませんよ!)
考えたら分かるでしょう?...いや、感じられるはずです。
こんな我々の精神世界の根本にあるものが一般に認知されていないとは!
私には生来から固有に覚えられていたにも関わらず!...
敬愛すべき哲学者たちと同じく、ウンと程度は下がるけど、私は確かにこのものに導かれたと言えるのです。









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