人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

感じる、受け入れる現実

2024-06-09 09:32:20 | 哲学・思想
私は時に哲学的なコ難しいことを言うかもしれませんが、そういう理屈っぽいことを表すことを主眼にしているのではありません。
どんなに高尚そうな(?)哲学理論めいたもの(そんなメンドクサイもん無いですが)が説かれようと、そこには感じること、感性的なものと切り離されることは無いのです。
感性の前では理屈は道を譲らなければなりません。
”あなたはどうなのか?”、という哲学的な問いがあったとして、哲学的には多くの場合、”私はこう思う”、という線の答えがあるでしょう。
しかし、もっと根本的なことは、”私はこう感じる”、ということであるはずではないでしょうか?、それがより、あなたの在り方を規定しているはずなのです。
こういうのを、”例によって”、やたらと定義したがる向きは、感性論、感性主義とか言うのかもしれません。何とでも呼ぶがいい!
私はただ、観念に浮いた机上の空論のようなものでなく、極めて現実に即したことを言っているまでなのです!...この現実から離れた哲学など、そも”ヒマ人のヒマつぶし”以外の何になるだろうか?
要するに、あなたは現実にそう感じているのかどうか、ということなのです。
例えば、原始仏教においてブッダは、”一個で存在する自己など存在しない、真我という実体など無い”、と”無我論”を説いたとされていますが、実体は求められなくとも、”私というもの”は意識されている、そう感じたならどうなんでしょうか?
いいや、”ブッダの教えは無我論なんだ!”とあくまで固執するとしたら、きっとブッダの”無記”の教えは死んでしまうことでしょう。ブッダの原理主義ほどナンセンスなものは無い!
現実にそう感じたなら、受け入れるも何も受け入れるしかありません。
所謂ノンデュアリテイの教えについては、再三言って来ました。
”あなたは居ない、全体しか無い”...あなたは現実にそう感じられるでしょうか?(もし私は居ない”とあなたが感じたとしたら、そういうあなたは居るでしょう?)
ブッダの教えと同様、信条だの、主義だの自説だの、そう思いたい、信じたいことにおもねることは、現実に感じる、それを受け入れるという、根本的な在り方からズレてしまっていることに他ならないのです。
しかしながら、現実に感じる、受け入れるということには、受け入れ難いことがあるのも事実ですね。
苦しいこと、イヤなこと...でもそこにも、より根本的に感じているものがあるはずなのです。苦しみ、イヤなことに隠れているもの...感じてみて下さい。
安らぎ?、幸福?...これは、苦しいことを否定して、そういうものを思おうとすることじゃないですよ!...だから、それは感じる、受け入れる現実から外れているんですって!
あなたが本当に、リアルに感じ、受け入れるなら感じられるはずなのです!...って、”こうすれば”という説明がオチになってしまったではないか!
そうなのです!...感じる、受け入れる現実とはそういうことなのです!...
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