人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真理の探究と幸福

2023-06-14 09:30:29 | 求道、探究
宗教やスピ、特に哲学など精神的な道では、その目的として真理を得ることと捉えられていることが多いようです。
中には、真理を探求すること自体が目的のようになっている例もあるでしょう。
私自身そういうことに熱くなったことのあるクチなのですが、よくよく考えてみたら真理を獲得するとか、到達するということがどういうことかよく分からないのです。だからとりあえず探求しているのでしょうね?(笑)
最初の頃は、スピ的な本などに“この世界には見える世界だけでなく、霊界という見えない世界があるのです!“、と書いてあるのを読んで、“そおだったのか!“、と短絡的に分かったつもりになってしまうものですね。
それは、ただそう書いてあることを頭で分かっただけで、自分が直接真理を知り得たことでもなんでもないのです。
だんだん、そういうのは、真理に到達することじゃないってことが分かってくるのが普通でしょう。
そして、もう一つ分かってくるものがある!...これがなければ、真理の獲得はおろか、探求もバカバカしくてやってられなくなるであろうものです!
それは、そのプロセスで得られる、喜び、愛、平安といった幸福感と結びつくものです。
それは、言うまでもなく頭で理解出来るものじゃありません。感じるもの、感性にうったえてくるものです。
あくなき真理の追究...それは多分に知的な興味から為されるものですが、それに果たして何の意味があるのかと、知的に考えてみると...何のために?...考え続けるだけ空しくなってきやしませんか?
どこまで行っても頭の中の追究ごと...そこにはオチるということが無いのです。そしてそれは不幸なことです。幸福に与ることが出来ないということは!...
心が愛、平安にある時、安らぎがある...心はそこに落ち着くのです。
この意味で、真理の探究の目的は幸福に与ることとは言えるでしょう。
ということは、愛、平安と切り離された、抽象的なだけの真理というものは無く、頭の中だけの真理の探求なんてのはあり得ないのです。
もっとも、私も経験がありますが、そんな中にも、単なる知的好奇心が満たされたものでなしに、“これが真理なんだ!、幸福なんだ!、と感じることもあるものですが、これが知らずにそういうものを感じているということなのでしょう。
そういうことはね、何か惹きつけられるようにも、最初から感じていたりするものなんですけど...それが私がよく言っている、見えない導きというものなのでしょう...。

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