「仏法は聴聞に極まる」(蓮如上人)
ある教えに接して、自分の内なるものを呼び覚ますような、魂が揺さぶられるものを感じたなら...
もうおのずとそれに意識が集中してしまうものです。
意志想念を働かせることなく、自然とそうなるのが普通でしょう。
それが読書を通してのものなら、“眼光紙背に徹して“(そんなに力む必要は無いですが)読まなければなりません。いや、そうならざるを得なくなるでしょう。
仏教、特に浄土真宗では“聴聞“、“聞法“という、ひたすら注意を傾けて聞くことが重んじられていますが、これは直に説法が行われている場合のことでしょう。
その時、こちらが先入観、固定観念などを交えて、それに自分の判断を加えようとするほど愚かなことはありません。
その分、その教えが伝えようようとするものは歪められ、中途半端な理解しか与えられないでしょう。否、それは何も理解していないに等しいのではないか?
その自分の狭い、観念に浮いた見識がその流入してくる真理の伝達を拒んでいることなのだから!
といってこれは、何も疑うこと無く、その教えに信じ従うこと、それを鵜呑みにするという、いつも私が揶揄しているような主体性の無い心的在り方とは違います。
むしろこれは、極めて主体的な関わりと言ってもいいのです。
誰にも疑いの念、先見的な見解というものもあります。
しかし、そういう思いは乗り越えられて、その真理への共感に意識はおのずと向けられてしまう場合もあるということを言っているのです。
そういう場合は、思いは超えられてしまうということなのです。
現実には自分の先入、固定観念に囚われている人間には、その教えからそういう契機が与えられることはほとんど無いと言っていいでしょう。
そうは言っても、それは形の上では、直接的な心から心への伝達で無く、言葉を持っての真理の伝達であるので、思考が介入されているものではあります。
それでも、説き手、聞き手の縁によっては、言葉を超えた真理の伝達が行われる場合もあるのです。
だから、書物なら眼光紙背に徹して読み、直接的な教示なら、ひたすら聴聞しなければならない...そうならざるを得ないのです。
要するにこれは、意識的に読み、聞くことを意味しているのです。魂が揺さぶられるもの、自分の思いを超えたものにゆだねられる...何で自分の思念で思い描かれ、固められた観念で、真理の流入する道を塞がなければならないのか?
修行の道では、よく本を読んだり、話を聞いたりするだけでは真理に触れることは出来ないと言われたりします。
しかし、少しも身につかないような、下手な修行を何年、何十年も繰り返しているよりも、一度でも、その言葉に意識的に関わることの方がはるかに真理にまみえることにつながるのではないでしょうか?
この意味でのもう一つの易行道を残された親鸞、蓮如さんが偲ばれます。
ある教えに接して、自分の内なるものを呼び覚ますような、魂が揺さぶられるものを感じたなら...
もうおのずとそれに意識が集中してしまうものです。
意志想念を働かせることなく、自然とそうなるのが普通でしょう。
それが読書を通してのものなら、“眼光紙背に徹して“(そんなに力む必要は無いですが)読まなければなりません。いや、そうならざるを得なくなるでしょう。
仏教、特に浄土真宗では“聴聞“、“聞法“という、ひたすら注意を傾けて聞くことが重んじられていますが、これは直に説法が行われている場合のことでしょう。
その時、こちらが先入観、固定観念などを交えて、それに自分の判断を加えようとするほど愚かなことはありません。
その分、その教えが伝えようようとするものは歪められ、中途半端な理解しか与えられないでしょう。否、それは何も理解していないに等しいのではないか?
その自分の狭い、観念に浮いた見識がその流入してくる真理の伝達を拒んでいることなのだから!
といってこれは、何も疑うこと無く、その教えに信じ従うこと、それを鵜呑みにするという、いつも私が揶揄しているような主体性の無い心的在り方とは違います。
むしろこれは、極めて主体的な関わりと言ってもいいのです。
誰にも疑いの念、先見的な見解というものもあります。
しかし、そういう思いは乗り越えられて、その真理への共感に意識はおのずと向けられてしまう場合もあるということを言っているのです。
そういう場合は、思いは超えられてしまうということなのです。
現実には自分の先入、固定観念に囚われている人間には、その教えからそういう契機が与えられることはほとんど無いと言っていいでしょう。
そうは言っても、それは形の上では、直接的な心から心への伝達で無く、言葉を持っての真理の伝達であるので、思考が介入されているものではあります。
それでも、説き手、聞き手の縁によっては、言葉を超えた真理の伝達が行われる場合もあるのです。
だから、書物なら眼光紙背に徹して読み、直接的な教示なら、ひたすら聴聞しなければならない...そうならざるを得ないのです。
要するにこれは、意識的に読み、聞くことを意味しているのです。魂が揺さぶられるもの、自分の思いを超えたものにゆだねられる...何で自分の思念で思い描かれ、固められた観念で、真理の流入する道を塞がなければならないのか?
修行の道では、よく本を読んだり、話を聞いたりするだけでは真理に触れることは出来ないと言われたりします。
しかし、少しも身につかないような、下手な修行を何年、何十年も繰り返しているよりも、一度でも、その言葉に意識的に関わることの方がはるかに真理にまみえることにつながるのではないでしょうか?
この意味でのもう一つの易行道を残された親鸞、蓮如さんが偲ばれます。
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