いつも私自身感じていて書いていることなのですが、段々思考機能が後退して、意識の領域が顕わになって来ているのを感じずにおれません。どうもそれは私個人だけのこととも思えないのです。
いつもは、世界がどうなるこうなるとか、人類の未来は如何に?、というような、有るのか無いのか分からない未来予言のようなことは書かないのですが、世界人類がどう変容するのか、ということは、どういう現象が起こるのかというよりも、我々の内的な変容の方が本質的で重要なことのように思えるのです。
思考自体が無くなるような、我々が生きて行けなくなるようなことは考えられませんが、それは隠れた意識領域と切り離せないものであることが段々感じられて来るのではないか?
それと切り離された思考は、いよいよ観念に浮いてしまうか、凝固して無機質的なものとなり生きたものとならなくなるのではないか?
我々は、そういう思考から表れた言葉などには真実性、リアリティというものを感じなくなるということです。
それは元々思考と意識の関係は、そういうものだったものが、より本来的に具体的に明らかになって来たということでしょう。
思考は本来、直感的感性と一つのものであった、ということに我々は覚めつつあるのではないか?
現象的に言えば、先のように思考は意識との本来的結びつきを加速させるが、一方ではその分離も加速させるだろうと感じています。
端的に言えば、思考は生きた、リアルなものに感じるか、そうでない、生きたものでない、消えてゆく姿のように感じるかに分かれて行くということです。つまり統合というものには分離が伴うということなのでしょう。
思考は意識と統合する...そこにはそう向かわせる、あるハタラキがある...自ずとある中心へと収斂されてゆくハタラキが感じられます。
このことは、フランスの古生物学者、カソリック司祭ティヤール.ド.シャルダンが「ヌースフィア(精神圏)」と呼んだ、未来に生物の進化段階として表れるという、世界というか地球的規模、全生物的規模のそうした精神的な圏層と関係しているようにも思えるのです。
勿論私には、地球的規模、全生物的規模のことは分からないですよ。そういうことを科学的に実証しようとも思わないです。
逆に言えば、ティヤールはどこかでそういうことを直感的に感じたから学者として、あのような壮大なビジョンを科学的に展開したのでしょう?
私は難しいことは分からないですが、そのようなことを感じなくもないということです。
ただ、ティヤールは進化過程として新たにその精神圏(この訳としては、“思考圏“という思考と意識の区別の分からないものもあったりしますが、“叡智圏“というものもあり、それがピッタリします)もたらされるとしていますが、それは私にはそれは隠れた本来的なものが復権するもののように感じていますが...
ティヤールは、その中心へと統合、収斂してゆくハタラキについて、それはキリストの霊なるハタラキだと言います。これはもう、彼が信仰の世界で直感的に感じたことを自明に言っているようなものでしょう。
何にしても、私は地球的な壮大なことは、思い描くしかないし、近未来に世界に何が起こる、かにが起こるなんてこと言うつもりもありませんが、段々思考は本来の意識的なものと一つに、それはある中心へと収斂されてゆくようなことは、少なくとも私には疑いようの無いもののように感じてならないのです。
私の内的実存が、私の主なるものがかく告げているのです!
あなたは如何?
いつもは、世界がどうなるこうなるとか、人類の未来は如何に?、というような、有るのか無いのか分からない未来予言のようなことは書かないのですが、世界人類がどう変容するのか、ということは、どういう現象が起こるのかというよりも、我々の内的な変容の方が本質的で重要なことのように思えるのです。
思考自体が無くなるような、我々が生きて行けなくなるようなことは考えられませんが、それは隠れた意識領域と切り離せないものであることが段々感じられて来るのではないか?
それと切り離された思考は、いよいよ観念に浮いてしまうか、凝固して無機質的なものとなり生きたものとならなくなるのではないか?
我々は、そういう思考から表れた言葉などには真実性、リアリティというものを感じなくなるということです。
それは元々思考と意識の関係は、そういうものだったものが、より本来的に具体的に明らかになって来たということでしょう。
思考は本来、直感的感性と一つのものであった、ということに我々は覚めつつあるのではないか?
現象的に言えば、先のように思考は意識との本来的結びつきを加速させるが、一方ではその分離も加速させるだろうと感じています。
端的に言えば、思考は生きた、リアルなものに感じるか、そうでない、生きたものでない、消えてゆく姿のように感じるかに分かれて行くということです。つまり統合というものには分離が伴うということなのでしょう。
思考は意識と統合する...そこにはそう向かわせる、あるハタラキがある...自ずとある中心へと収斂されてゆくハタラキが感じられます。
このことは、フランスの古生物学者、カソリック司祭ティヤール.ド.シャルダンが「ヌースフィア(精神圏)」と呼んだ、未来に生物の進化段階として表れるという、世界というか地球的規模、全生物的規模のそうした精神的な圏層と関係しているようにも思えるのです。
勿論私には、地球的規模、全生物的規模のことは分からないですよ。そういうことを科学的に実証しようとも思わないです。
逆に言えば、ティヤールはどこかでそういうことを直感的に感じたから学者として、あのような壮大なビジョンを科学的に展開したのでしょう?
私は難しいことは分からないですが、そのようなことを感じなくもないということです。
ただ、ティヤールは進化過程として新たにその精神圏(この訳としては、“思考圏“という思考と意識の区別の分からないものもあったりしますが、“叡智圏“というものもあり、それがピッタリします)もたらされるとしていますが、それは私にはそれは隠れた本来的なものが復権するもののように感じていますが...
ティヤールは、その中心へと統合、収斂してゆくハタラキについて、それはキリストの霊なるハタラキだと言います。これはもう、彼が信仰の世界で直感的に感じたことを自明に言っているようなものでしょう。
何にしても、私は地球的な壮大なことは、思い描くしかないし、近未来に世界に何が起こる、かにが起こるなんてこと言うつもりもありませんが、段々思考は本来の意識的なものと一つに、それはある中心へと収斂されてゆくようなことは、少なくとも私には疑いようの無いもののように感じてならないのです。
私の内的実存が、私の主なるものがかく告げているのです!
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