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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

霊止と人間

2025-03-12 05:43:25 | 哲学・思想
人間とは何か?
畢竟、私とは何か?
このことに正面きって答えられる人は、一体何人居るでしょうか?
本当の自分、真我ということが問題になることからも、それは分からないものということなのでしょう。
人間とはその字の如く、何かの間を生きているものなのではないでしょうか?
神と動物の間、見えるものと見えないものの間...
どうも一コの人間だけをポツンと置いただけでは、その真態は見えてこないものらしいです。
生物学的に、個体としての人間存在が分かったとしても、この“私がここに在る“、という実存感覚とはつながらないでしょう。
人間は、その個的存在を超えたものを想定しなければ、その真態は分からないようです。それは先のように、そういう実体として分かるという意味ではありません。
その超えたものは見えないもの...私はそれをいつも仮に神的なものと言っているのですが...
超えるとは存在的な意味ばかりでは無く、ベルジャーエフが常に述べていたように、一コなる精神の上に超えた精神的なもの、超越者たる神的なものが想定されて来るのです。(それは、一コの人間が上へと超越するという意味ではありません。この二つの超越的な事態は切り離しては理解出来ないでしょう)
このように、動的に在らしめられている人間を固定的に、客観的に理解しようとしても理解を“超えて“しまうのは必定なのです。
一コの人間は、それ自体では何かの切れ端のようなもので、一体となるべく存在的にも精神的にも超え出ようと、本来的に駆り立てられて生きざるを得ないように何ものかに仕組まれているようです。
つまり人間は常につながり、統合を求めていると言えるでしょう。いやそれだけでは切れ端からの説明にしかなりません。
何ものかから仕組まれているように感じることは、つながり、統合せしめるものがあるということに他なりません。
それは、その本来的統合態へと回帰されるということのようにも感じられます。
しかし、切れ端のような一コの人間からは、統合、調和へとつながることは不可能でしょう。それは、自体が統合、調和であるような超越者からの霊なるハタラキからもたらされるものでしょう。
霊なるハタラキが一コの人間に留まる、止まる...古来、ヒトは霊止(ひと)と読み、意味していた通りです。
それが何故か、ヒトという言葉は、生物学的人間の説明として用いられているとは!
ヒトは、本来の霊止の在り方に帰らなければならないのです。
人間の動的状態は、神、霊なるものにつながることにより平安の内に止まるようになるのでしょう。






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