人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

集団的思念からの目覚め

2024-02-17 09:45:13 | 覚醒
私は宗教的な妄信、狂信、カルト信仰などにはびこる思念を集団的思念と呼んだりしています。
彼らは、徒党を組んでものを言っているのです。現実にそういう関わりがあろうとなかろうと、その心根には徒党が支配しているということです。
そして、その集団に寄りかかりながらある教えに固執して、“自分たちだけが正しいのだ、皆もそれを信じ、従わなければならない“、とこれ又、集団におもねり、煽るような言葉を発し続けているのです。
コロナ禍でにわかに盛んになった、陰謀論などはその典型的な例と言えるでしょう。
陰謀を信じ込む徒党が生まれれば、当然信じない徒党も生まれる...
“マスコミは事実を隠蔽し、歪めているから信じちゃいけません!“...と、偏った情報を盲目的に信じている反マスコミ徒党!...この両者の一体何が違うというのでしょうか?...暴力的な煽りを発信して、騒ぎを起こさない方がはるかにマシとは言えるでしょうが...
ある教えに固執して、支配されると、別の教えに信従する者が対立する...どこまでも続く相対対立の無限ループ!...
こうした心根からは、精神的な目覚めなど絶対に起きようはずがありません。まったくほど遠いい、睡眠、催眠状態ということを知らねばなりません!
その目覚めとは如何なる徒党とも関わらない、純粋な自己に目覚める、実存に目覚めることに他ならないのですから!
有り体に言って、精神的目覚め、覚醒というものは、集団的思念の迷妄から目覚めることを置いてはあり得ないのです。
如何なる他者にも寄りかからない、真に主体的な純粋な自己...それはこの自立した一個たる自己に他ならないのです!...ってーことは、徒党に組みしたがる自己に対してそう言われるのであって、ホントのところはどうなのか?
いや、そういう一個の自分というものからして、世の中でそう言われているものに過ぎないのではないか?
ただ、そこには集団的思念(思念というもの自体が本来そういうもなんだ)を超えた、“私はここに在る“、という純粋意識があるのです。
これは、一個に帰されるものではありません。だから個我の立場の固執というものも、形を変えた個人主義徒党?なのでしょう。
“私は在る“、という純粋意識の目覚めからは、“自己は一個の自分では無い“、という気付きがもたらされます。
そこから全く相対対立の世界を超えた自他の調和世界が開示されるのでしょう!...


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