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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

カルマのことなど知ったこっちゃない!

2023-06-05 09:28:37 | スピリチュアル?
私がチョイと知ってる反面教師画伯は、いつもトンデモなことを書いているのですが、これにはホントに驚きました!
“覚醒するには、カルマをすべて清算しなければならない!“、のだそうです。
覚醒に与るような人とはどういう人なのだろうか?、この人らにはカルマが全然無いとどうして分かるのだろうか?、誰が覚醒に与れるのだろうか?...
言うまでもなくこの御仁は、誰かが言ってることを真に受けて、そう信じ込んでいるだけなのです。
40年以上もの間、五井先生を信奉していて、それに則った修業をしているらしいのですが、五井先生がそういうことを言っていたでしょうか?
ずっとそういうことを信じ続けていたというのか!...そして、覚醒することを目指しているのか?、自分でやって出来る、と!
迷った人間は、迷ったことを周囲に拡散してゆきます。何というカルマの流転だろう...
まず、そういう先入観、固定観念に囚われていること自体、カルマの呪縛を受けていることを知らねばなりません。この他陰謀論、人類の多くが淘汰されるという予言、生まれ変わりなども同様です。
そうそう、カルマは前世から持ち越されているという。...五井先生も前世のことを言っていたのは確かなことですが、それは、個人の力ではどうにもならないもの、という宿業観を強調したためでもあったと思います。
私は勿論、カルマそのものを否定している訳ではありませんが、自分で消そうにもどうにもならないし、何のカルマがどう作用し、消えたかなど考えたって分かりゃしません。考えるだけ無駄でしょ?
それより、そういう無駄な想念、トラワレから自由になることの方が重要なことでしょ?
五井先生は、思いは常に神の方に向け、入れるということを重点に説いていたのではなかったか?
この御仁、ずっと自分が為そうとする思いから抜けることが出来ないようなのですが...それがカルマの何たるかを物語っているのでしょう。
祈るのは自分、カルマを消そうとするのも自分、霊的に進化し、覚醒、悟るのも自分...自分の力でどうともならないことは、自分を超えたものに全託するしかないのだが...全託するのも自分!
五井先生の道から脱線して、カルト集団にハマることこそは、大きなカルマなのではないか?
すべてのカルマを清算しないと、って!...ま精々、自分の足下をよく注意して歩くことですよ!..アリンコを踏みつぶすとも限らないので!
ほとんどの人間は、そんな神経症のような思いから自由に生きているのです。
カルマのことなど知ったこっちゃないのですよ!
勿論、悪いことをすれば、悪いムクイがある、なんてことは子供だって知ってることですが...
諸々の思いから自由に、トラワレ、障りなく生きたい、とは誰しもが願っていることでしょう。
思いを超えたものを頂くことは、どんなに自由に与れることでしょうか。
自分で覚醒しよう!、などとたぎるような思いからも自由に!
そうすると、逆説的に目覚める時には目覚めたりする、かもしれない?
それで、カルマが解消されるかどうかは知りません。
しかし、少なくとも、カルマに纏わるトラワレから解放されるのは確かなことでしょう!

いや、だからどう考えても、“カルマを解消しなければ!“、という方向軸とは逆なんだ!
という訳で、また一つ反面教師殿から貴重な学びを受けることが出来ました。
有難う!(皮肉じゃないよ!)


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人間とスピリチュアル

2023-01-18 10:02:52 | スピリチュアル?
伝統的宗教にあっては、スピリチュアル、霊なるものと関わりを持たないものなど皆無と言っていいでしょう。それ無しにどこに存在理由があるでしょう?
仏教は、お釈迦様は、神や霊について語らなかったではないか?、という向きもあろう...冗談じゃない!...それは言葉のロジックに囚われているのです。そうしたもの抜きにどうして思念が滅せられたり、解脱などということなどあり得るでしょうか?...自分自身のことに即して考えれば分かりそうなことではありませんか?
神、霊...それはただの言葉に過ぎません。ここでは言うまでもなく、我々の思いを超えたもののことを言っているのです。
仏教的には”ダンマ、妙なるもの”、というものがまさにそれでしょう。そしてブッダの慧眼は、それらを実在論、実体論的に説かなかったところにあったと言えるでしょう。
然るに、現今の所謂”スピリチュアルもどき”は、神の、霊の実体に囚われ、思念世界に閉じ込められて、思考停止に陥っている有り様ではありませんか!
一方、やはり精神的な世界と関わる哲学の世界はというと...近現代の哲学は絶えず、論理的思考を巡らし、その帰結に導くことが主流とされているようです。そんなもの、頭の中の抽象的な観念だけで帰結されたって、我々の実存はどこにもオチるところなどありませんよ!...論理のための論理、哲学のための哲学など、ヒマ人の知的遊戯にしかならないでしょう!
思考を超えたものを指向せず、結び付かない哲学などやはり存在理由がありません。少なくとも私には!
かように、我々の精神の道は、思考停止に陥るか、観念の堂々巡りにハマるしかないのでしょうか?
自分自身、自己実存に即してみられよ!...来た、キタ~ッ!
ああ、もう!...どちらの無駄ごとも...そんなヒマは無い!...神、霊なるものの現臨の前では!
考える私が居て、スピリチュアルな世界があるのではありません!
我々一人一人がスピリチュアルな生きものそのものなのです!
万物の霊長、霊の止まるもの、霊止(ひと)なのです!
そもそも我々の精神というものは?...(英和辞典を引くべし!...)
人間性の復興ということが盛んに言われておりますが、それが見失われたのは、本来のスピリチュアリティが見失われたから、と言っても過言ではないでしょう。
私はその復権を願わずにおれません!
それは、神の顕現への願いと一つのものなのです。


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スピ界は無駄だらけ!

2023-01-16 10:06:57 | スピリチュアル?
度々書いているように、私は常々スピリチュアルなことは、極めて現実的なことであると思っています。
否、多くの人が現実と思っているものは、まんま思われた現実に過ぎないのではないでしょうか?
その諸々の思考マインドで覆われた世界を切り開くものこそは、スピリチュアル、霊なるものではないのか!
然るに、何とスピリチュアルと呼ばれている世界には、空想、妄想、幻想で溢れかえっていることか!
この世界には、その思考の支配する世界に対して、開かれたものと、閉じられたものとがあることを知っておく必要があります。
現状では大多数は後者のイメージで語られているのでしょうが、そのいずれに我々の精神が導かれるかを巡り、そこには天と地ほどの開きがあると言わねばならないでしょう。
だから、同じスピリチュアルという呼称を用いるのは、憚るものを感じてなりません。
後者で取り沙汰されることは、霊界、幽界、アストラル界、エーテル界、過去世、輪廻転生...ほとんどは誰かが言っている通説の受け売り、追従に過ぎません。
追従者、即ち信者の実存的現実からはかけ離れた空想観念ばかりが、大手を振って語られているのです。
何ら実証されてもおらず、自分で確証など持ち得ないことであるにも関わらず、その多くが断定口調で語られる...空想、妄想が事実であるかのように、脳に植え付けられる...自分が妄信するのは勝手でしょうが、始末に負えないことには、対外的に拡散せずにおれない衝動に駆られ、空想世界の住人が後を絶たなくなる...
種々の異界を通らないと、悟りに至らないと通説に追従し、あるいは体中のすべてのチャクラ(霊的なチャクラもあるらしい)を開かなければそうならないと、ヨガ行者(チャクラ云々は、彼らの間に伝わる通説)でもないのに囚われる...(もしかしたら、そういう事実もあるかもしれないが、そういう事例を私は寡聞にしてほとんど聞きません)確証も無いのに、いつたどり着けるかもしれない修行をし続けなければならないとは!...全くご苦労さんなことではないか?!
このような空想、妄想に囚われることは、実に無駄なことばかりではないでしょうか?
現存しないことを思い描き、膨らませ続ける...多いなる無駄と言う他ありません。
回り道、迷い道、”よこさ”の道を歩むために諸々のことが考え出されているようではないか?
それは神ではなく、誰かが言ってる、書いてるだけのことなのです!...神ならぬ思凝りなのです!
精神的覚醒、悟りなどについても空想ごとで語られる始末です。
それはまったく持って、かかる睡眠状態から目を覚ますこと以外の何ものでもないではないのか!
それは、ありのままの自分を受け入れることからしか始まってこないでしょう。
その時こそ、スピリチュアルなことは、実に現実にあることに目覚める...かもしれない?
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霊界の真相?

2022-11-26 09:48:01 | スピリチュアル?
”人生は見たまま、思われたままで出来ているんじゃない、その裏側には見えない、思いを超えた世界が広がっている...“

と、言うようなことをいつも書いている訳ですが、その“人生の裏側”とは、所謂霊界のことか?と、短絡的に思う人も居るかもしれません。
そういう人は、霊界というものは、実在しているんだ!、と決めてかかっているのでしょうが、霊能者でない私には、有るとも無いとも決めつけれないのです。
少なくとも、見てきたようなことは言えません!、だってそれは見えない世界なんでしょう?
ただ、いくらか固定観念に譲歩して(?)、理解の一つとして、”霊界の存在を借りる”ことは出来ると思うのです。そういう表現を借りると言ったらいいでしょう。
言うまでもなく、分からないからと言って、霊界、ないし死後の世界などを否定するつもりは全く無いのです。否定も肯定も出来ないというのが本当じゃないですか?
私も出口王仁三郎師の「霊界物語」を読んでるし、又「日月神示」なども...これらに多大な影響を与えた見霊者、エマヌエル.スエデンボルグなども...私はそのあまりにも恣意的に、歴史上の誰それは地獄に落ちている、だのと語る表現にヘキエキしたことがありましたが、あまりトラワレを持たずに読めば結構面白いと思いますよ。
スエデンボルグは、至るところで”神は一なるもの”、ということを強調しています。キリスト教の三位一体の教義について、それらは”父、子、聖霊”の三つの別々の位格がある訳じゃなく、すべて一なるエホバの神の表れと言っています。
私はこれは、”霊界”ではこのように、神は一なるものとして、分離したように認識されないということを言い表しているように感じました。それは、そう感じている自己と分離していない、ということでもあるのですが...
その割に、例えばルドルフ.シュタイナーでも同様なのですが、その表現はあまりにも、“見てきたよう“過ぎるというか、客観的筆致に終始しているところがあります。
“この世“の一風変わった情景を思い描いたように...
典型的なのは、“霊界は何段階もの階層を成している“、なんて言うのがそうです。
これについて、ベルジャーエフが言った、“階層という概念は現実世界にしか適応出来ない!“、というのが本当ではないか?
いや、そもそもが霊界については、同じくベルジャーエフが言うように、象徴、表徴を持ってしか言い表すことは出来ないのでしょう。
だから、それを超え、無視して客観的実在のように、“霊界の実在“を観念で決めつけることなど出来ないのです。(この意味で、寓話、神話という形を借りた、“霊界物語“などがそれを表現するに適していると言えるでしょう)
観念で分かったつもりでも、現界から一歩も超えることは出来ないのです。
要するに、見たまま、思われたままの表側の世界を超えなければ、裏側の世界は開かれないのです!
“段階を超える“、というのは、この大きな峠のことしか私には感じられません。どのくらい大きいかというと...自分の力では到底超えられないくらいです!
だから、自分で超えたというのは、きっと中途の段階なのでしょう?
“分かった!、それは、幽界か?”、って?...そういうのと霊界の何段目とどう違うのか、私にはテンデに分かりません!
何で、私が霊界なんていうものを持ち出したくないか?...メンドクサイからに決まってるでしょ!...

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本来のノンデュアリティ?

2022-11-06 10:02:20 | スピリチュアル?
最近の私は、盛んに”何々と何々は、切り離すことは出来ない!”、ということを言ってますが、それに触れて、”ハハーン、この人は、ノンデュアリティの人なんだ!“、と思う方もおられるかもしれません。
そういうことを言っているには違いないですが、そこは世に言うノンデュアリティ、非二元の道とは“切り離して”もらわないと...私はどんな思想的立場、学派、宗派からも自由でありたいんですから...
もっとも、ブログを始めた一時期、ああいう道にカブレていたことは認めます。だけど、それは到底、心から首肯出来るものじゃなかったのです。
大体、その宗派の人たちがこぞって“私は居ない”、“すべてはストーリー”、だとお題目のように称えていたのが、アタシャ、もうムシズが走るようで受け付けないです!
“そんな宗派などない!”、と彼らは言うでしょうが、このこと自体がそれを浮き彫りにしてるじゃないですか?
ああいう教えを説く教師が居て、それに追従する信者たち...この構図がもう、本来直接的な道を指し示すはずのノンデュアリティから逸脱しているのです。
それは、本来一人一人の実存と”切り離されるものではない!“、はずなのです!
その説かれる内容が、一元的だろうと、二元的だろうと!...
実存的在り方がそのいずれかに分けられてしまうこと自体、その分離化の最たるものではないか?
”神は、自己と別在する二元的存在である!、元々悟っているのだからそういうものを借りる必要はない!”...すべて己の観念で完結してしまう世界、それを”信じること“、思念だけが支配している世界...数多の宗教がたどる道と何ら変わりがありません。何たるギマン、茶番であろうか?!
私の実存に照らして、強調せざるを得ないことは、その、ぶ厚い観念の覆いを突き破って、二元(と考えられている)の彼方から、実存に直接タッチしてくるものがある(一元化?)、ということです。
自分の思いを超えたものには、それにゆだねなければなりません。
多くの非二元論者が説く、“自分はない、全体しかない!“、という果てしなく広がっているだけの空的な全体には、どうにもゆだねようがありません! ゆだね...させるものがあるのです。
この、私がよく現臨と呼んでいるものにある時、それは空々漠々たる全体のようには感じられません。ある局限的なものとして私に直に関わる何かでありながら、そこにはどこにも際というものが見当たらない、無限性も感じられる...そこに何か自己の“ますがた”のようなものが感じられたのです。
一元であって二元、超越的であって内在的...相対世界を生きていて、絶対的なものを内に根差して生きるもの...人間存在とは、相反するものであって、切り離されないものの極点なのではないでしょうか?!
これが当たり前の人間というものなのでしょう(裏を返せばこんな当たり前でないものは無い!)。
言うまでもなく、ここでは、生きている人間が、生きている人間のことを、生きている人間のために書いているのです。何ら特別なことはありません。
特別な教えも理論もメソッドも..._みんな、一人一人の私を、つながり合って生きているのだから...

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