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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神のリアリティと事実

2024-02-03 09:43:07 | スピリチュアル?
神的なものと共にあることは、愛、平安、リアリティに与ることと言ってもいいでしょう。
しかし、このことは証明出来るものではありません。
愛、安らぎというものからしてそういうものであるのは言うまでもないですが、ここで言うリアリティというのは、普通“考えられている“、現実、事実とは違うもので、前のものと切り離されないもので同じことなのです。
言い方を変えれば、たとえこれらのことが証明されたとしても、あなたはそれに与ることは出来ないのです。
これが神的な、霊なるものと共にある、一つになるということなのです。
然るに、何故に宗教やスピ界隈には、神、霊なるものがあたかも証明出来るような事実として語られたりしているのでしょうか?
その存在性が証明されようと、あなたの内的実存とは何の関係も無いであろうのに!...
神のリアリティは、自己実存に照らせば自明のことなのですから!
この傾向の多くは、宗教的狂信者、カルト信仰などに見られるものです。
彼らは、信じている神、教え、陰謀論などの真実性を客観的事実に求めようと躍起になっているのです。
沈着冷静に科学的事実を証明しようとする学者たちに比べると、はるかに理性は飛んでしまい、肝心のその真実性のことも実はどうでもよくなって、ただ自分が信じたいこと、妄念のトリコになってしまうようです。
妄念とは、有るか無きか、分からないことを有ると頑なに信じ込むことであり、必ずと言っていいほどその出所は、自分が信じている誰かの言葉に過ぎないのです。
要するに、彼らは真実に神的、霊的なリアリティというものを知らず、それと伴う実存的意識というものにも目覚めていないのです。
だから、容易く他人の言動に追従、隷属してしまうのです。
観念に強固に囚われることにかけては、ある面で所謂唯物論者以上かもしれません。
ずっと理性的で、より内的に深まる可能性もある、実存的に神、霊を信じない人間も多く居るだろうから...
だから、たとえ神、霊のことが語られようと、観念の奴隷と化した者ほど、真の宗教、スピリチュアルの道に遠いものは居ないと言うのです。
彼らがどんなに瞑想を、祈りの行を、信仰生活をし続けようと、その形を真似ていても何にもならないのです。
出発点からしてズレてしまっているのでしょう。
このことに意識を向けられないのでしょうか?
言い換えると、ここでは神、霊なるものとは自分自身にとってどういうものなのか、ということを問うてみることです。そうすると、意識的になったりするのです。
自分が自分に...というのが難しいのであれば、そう、神に問えばいい!
勿論、誰かが言ってる神じゃなく、あなたの神に!
祈りも瞑想もこのことからズレてはあり得ないでしょう!



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囚われなければいい!

2023-12-02 09:28:47 | スピリチュアル?
瞑想修行などでは、クンダリーニと呼ばれる、ある種の生体エネルギーやチャクラと呼ばれる、そのエネルギーの焦点のようなもののことが取り沙汰されています。
それを意識すればいいのだとか?...私はそういうものに携わっていないのでよく分かりません。
ただ、一説ではクンダリーニは、寝ている間に自然に表れ、上昇するらしいのです。それにより体温も上昇するのですが、それ自体は、クンダ...云々ということでなくとも生体科学などでは普通に言われていることです。
そして、ある種のバイブレーションが発動することで、得も言われぬ至福感を覚えるのだとか?...単にストレスが発散するためだけではないらしい?
一方、チャクラというものに関して、それはエネルギーの共鳴が起こる場所なんだとか?
これは今も盛んに鳴り響いている耳鳴りなどは、正にそれらしいのです。
それは又、守護霊などが感応しているシグナルみたいなものだ、ということもスピの世界ではよく言われていることです。
こういうことは、私もずっと前から知識としては知っています。
“だから、そういうものに意識を向けていればいい!“...という訳ではありません!
むしろ、知ったらそうしないですよ!
だって、それは私が思い、為そうとすることでしょ?、意識するとか言うけど、自分の意志想念でコントロールしようとすることでしょ?
寝て起きたら、体が温まっている、体だけじゃない、霊体も?、いや何だか分からないけど、そういう分けられない一体的なものに暖かさを感じます。
そういう場合は勿論至福感が伴っています。これは間違いない!
そうでない場合は、冬でもないのにやたらと寒かったりします。悪い夢でも見たんでしょうか?
又、耳鳴りというのは(これは勿論、高音の“き~ん“の方)、意識がより明晰になっている状態のバロメーターみたいなものです。これも間違いない!
しかし、こういうことはあくまで付随的なことなのです。
そういうエネルギー的なものに意識を向けるのではありません!
神的なものに向ける(向けるというのは、やはり適切ではありません、向けられるんです!)...神はイコール、エネルギーではないのです!、もっと包括的なもののことを言っているのです。
まず、何よりそれは愛である。エネルギー自体は様々だし、常に愛が伴っているとは限らないし、どう変質するかも分かりません。
そして神は、意志想念で操作など出来ないのは言うまでもありません。
朝起きたら幸福感でいっばいだった、ということも、耳鳴りはその臨在の印であることも間違いないのは、そこに神的なものを感じているからなのですよ!
クンダリーニでもチャクラでも(名称は色々あるんでしょうが)本末を間違えなければ、とても参考にはなります。要するに囚われなければいいのです。間違いない!


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真の神通力

2023-11-14 09:33:48 | スピリチュアル?
神通力というと、天眼通とか天耳通、他心通など常人には見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたり、人の心が分かったりするなど、所謂超能力として語られていることが多いようです。(仏教から来ているのに神から来るみたいですね?)
だけど、この言葉通りに受け取ると、神に通じるということもあるでしょうが、私には“神が通る“というニュアンスが強く伝わってきます。
神から来て通る力...それは、超能力でよく、語られるような得たり、自分のものにするというものでは無いということです。
道元禅師も「正法眼蔵.神通巻」の中で、(そこでは勿論仏道との関連で説かれているのは言うまでもないですが)「色彩や形態の世界に入っても、それに惑わされず...」「、「(六)神通とは、六根にあとをとどめないものとして明らかにすること」と述べられています。
見えたり、聞こえたりする感覚があったとしても、そのあとを残さないということなのです。
キリスト教では、“聖霊の賜物“と言って、予言や異言、癒しなどの力が与えられたりします。
これも又読んで字の如く賜物なのであることを忘れてはなりません。
小池辰雄先生もそれは決して私物化など出来ないものとして強調されていました。
このように、常人の力を超えたことばかりに囚われがちになるものですが、囚われたら、とどまっていたら通らないのです。通らないものは神通ではない!
悟りというものでも同じことでしょう。神から来なければ、そこを通らなければ悟りではない!(先の道元禅師の場合は仏から...)
神の力が通るということ...その根底にあるものは、愛、安らぎでなくて何であろう!
何も奇をてらうものなどありゃしないではないか!
こう言うと、すべてが神から来て、通ると言ったらそうなのでしょう?
又自由というものがある。通るということは、遮るものが無いということなのだから...
今、通っている!...これを“私は得た、私の力だ!“、と囚われた途端に無くなるか、外道、別のものに変質するだけですよ!
だから、私は“与る“という言い方をするのです。
通るということは道がある、回路みたいなものがあるということです。
それはやはり“ここ“にある。それは開かれなければならないのは言うまでもありませんが、一度でも神の力が通れば開くのです。
何事でもそうですが、それはやはり望まなければなりません。祈りをもって...神が臨むのを!、神の力を!...思い、為そうとする自分でなく、自分の力でなく、神の神通力によって開かれるのです!...


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霊的物質主義

2023-11-12 09:12:57 | スピリチュアル?
私は、例えば神的な現臨のことを書いたりしますが、それが何かの霊体みたいなものとして言い表したことなど一度もありません。
見た、見える訳じゃないので分からないのです。
それで、何でそういうものが臨むとか顕わになるのが分かるのか?...
こんなハッキリ分かることは無いんだから仕方がない!
現臨にある時、私という一個の人間が無くなるような感じにしばしばなります。
勿論、それで私の肉体が消えて、霊化したりなんかしませんよ(笑)
そこに何か体を帯びたような固定したものがあるかのように考える...これは肉体は無い、物質は無いと否定することでも同じことです。
それがあることを前提にしている。そうじゃない!(おや、言い回しが難しいな)
別にそれ(物)を否定することでもないのです。有っても無くても。
その他、霊界というものがあって、それは何段階もの層によって出来ているとか、何千年前の過去世はどうだったとか、何十年後にこういうことがあると予言で示されたとか...見えない世界にもそういう固定した時間というものがあるらしいです。
こういうものは、すべてこの世で考えられるものの延長に過ぎないことが分かるでしょう。そう思い描いていることを言っている訳です。
このような、考えている自分がこの世の感覚で、見えない世界(短絡的に霊界のことではない)のことを決め付けたように言い立てることは、差し詰め“霊的物質主義“とでも呼ぶのが相応しいでしょう。
いくら霊的なものとして語られようと、そういうものは何も伝わりません。返って思念に覆われ、囚われるだけです。
いつも感じて、そう言うように霊なるものに関わることは、思いを超え、離れるということなのです。
見てる世界、肉体の自分はそのままで、そういうことが実にハッキリと感じられるのです。
これはどういうことかと言うと、思考マインドでなく、意識次元が変わるということに他ならないのです。
そのままで、丸っきり変わってしまう!
それには、具体的にそれへの転換、シフトというものが無ければなりません。
それを宗教、スピの世界では、回心とか覚醒体験と結びつけて語られているのですが、そこを曖昧にしてずっと思念世界に囚われてるってーのは、一体?
きっと、そこのところをきちんと示す、導師に巡り会ったことがないのでしょう。
会っただけで分かるかもしれないのに!
導師は、肉体を持った人間とは限らないですよ!
霊体か?...いやだから、会えば、その御方が臨めばハッキリ分かるんだってば!
だから私は神的な現臨のことを見えない導師とか言っているのです。それが臨めば、あらゆる妄想ごとは終わるだろう!...

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神のみぞ知る

2023-07-10 10:04:04 | スピリチュアル?
近年、特別な精神的な修行もせず、そうした世界と関わらないような人たちも含め、突如覚醒体験のようなことに与る人が増えています。
私が日頃書いているようなことも、こうした背景が存していることも無い訳ではありません。
というより、何かに自然と促されているような感じも受けているのです。
これはですね...アセンションと言われているようなこと、人類的な規模で覚醒してしまうような事態になる日が近いということを物語っているのですよ!...
なあ~んてこた、分かりゃしません!...それは“神のみぞ知る“、というものでしょう?
確かに、私もかつてそのような想像に基づく思いにトラワレていたこともありましたし、このブログを始めた当初には、そんなような記事を書いたこともありました。
しかし、それは所詮来ない先のこと、神に聞かな分からないのです!
分からないことを、確言してしまうのは、妄想にトラワレているとしか言いようがないでしょう。
しかししかし、先のように、日増しに(特に前回も触れたような、すべてを照らす“照明“のような光とか...)強まって来ているのを感じるのは、多くの人も伝えているように確かなことでしょう?
これは又、このアッツイ日などに特に感じることですが、私に即して、より具体的に言えば、思考力が減退して来て、代わってその奥にある、意識の領域が顕わに、目覚めて来るような感覚です。
だからと言って、それで人類的な規模で、多くの人が覚醒体験に与るようなことになるかどうかは分からないですよ!
多くの人間は覚醒することなく、無意識状態、仮死状態に陥るかもしれないですしね(昔、そういう予言をしていた人も居ました!)...
これは、例えば人間の精神というのは、思考マインドしかない、それがすべてだと思い込んでいて、意識次元に全く開かれていない人間には、そうなる可能性も無いとは言えないのです。
いいや、そういう時にこそ、所謂守護の神霊というか、見えないハタラキによって然るべき導きが受けられる、ということもあるかもしれません。
しかーし、そういうものを頑なに否定している人はどうなのか?...と言ってたらきりが無い!
要するに、そういうことはそうなってみないことにゃ、分からないのです!
だからだから、私はいつも口を酸っぱくして言っているんです!
意識次元を開かなければならない!、神に意識を向けなければならないんだ、と!...その日、来る日のために!...
いや、そうじゃないんだってば!...その日が来ようが来まいが、そういう在り方は確信をもって、すべての人に推奨したい気持ちを持っているのです。
そこに、愛、平安、リアリティがあるから!...分かりきったことです!
目がまだ黒いうちでも、白目を向くことになっても(?!)...
仮に、思考がマヒしてしまうことともなれば、“私は高次元に移行するんだ!“、なんて妄想することも出来なくなりますよ!...見えない導きにゆだねるしか無いのです。
だから...来ない先のことは、“神のみぞ知る“のです。
この言葉の重みを感じ取ってもらえるでしょうか?
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