goo blog サービス終了のお知らせ 

人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

最終解脱?

2020-07-14 10:42:53 | 覚醒
誰でもそうなのかもしれませんが、私は小学一年以前の記憶が曖昧なのです。二年以降だと鮮明に甦ってくることがあるのですが、どうもこの時期は微睡みの中に居たようで...。
そして、家族が証言していたことによると、時折目が虚ろになり、家の中をウロウロしていた、と。..どうも私はチョイチョイ夢遊病にかかっていたようなのです。
それ以外にもどうも、しばしば無意識状態に陥っていたらしい...微睡みに居た感じがするのは、遠い過去のことだっただけでなく、多分このことが要因になっていたのでしょう。
ずっと後年になって、就寝に入る直前とか、瞑想中、あるいはこのブログを書いている最中に、そうですね..."私は居ない"、"ただ起こることが起きているだけ"、とノンデュリアリティなどでよく言われる何かの境地(?)になったことがあります。
そしてそんな時ふと、その私の消されていた記憶のことが、それと重なり仄かに甦ってきたりするのです。
私はしばしば日常感覚を失った状態の中でさ迷っていたのかi...
直ちにこの状態と、非二元的なそれと比べることは出来ないでしょうが、確かにそこには境界という感覚は薄れ、分離感というものは感じられません。
しかし、そこにはその境地で感じられるという、愛とか安らぎといったものも無いのです。だってそう感じられる私は居ないのでしょう? ...勿論苦しみもありませんけど...楽しいですか? あ、そういうことも無いんだったi
これは"愛、平安、リアリティにある"、という状態とは違うi...一口に言えば神的な現臨にある、という感じでは無いのです。
ある人たちによれば、その自己が喪失した状態を"最終解脱"と言うらしいです。
これは如何にも瞑想など修行に常に勤しんでいる人たちらしい言い回しと言えるでしょう。
そうでなければ、この解脱とか悟りというものについて深い理解も持たず、漠然と思い描いているだけの人間の、最終的段階に達するという、その飛び付きたくなるようなワードでエゴ.マインドを擽られているだけのものでしょう。
彼らはそのエゴも、何かの境地に達する自分も無くなる、ということすら分かっていないようです。(この現実を突き付けられたら多分、真っ先にどっかへ逃げて"居なくなる"だろう...)
私などまだ人生の幕が開いたか、開かないうちに、最終解脱を迎えちゃってたとしたら...そんなバカなこたあないi
精神科医ならおそらく何かの意識障害と見なすような、こういう境地というものを望み、目指そうとする人って居るのでしょうか?...居るかもしれません。私には理解出来ませんが...
私にはこの"最終..."という響きからは、この世の生の最終である、"死の段階"というものが過ってならないのです。
何故、予期せずにそんなことが起こるのか分かりませんが、私は一度として、こういう境地というものを望んだことはありません。
神的なものの現臨は、これと隣り合わせのものに違いないですが、私の深い部分で望んでいたことであるのは言うまでもありません。
あの微睡みの中で、それが何かを知らずに叫び続けていたのですから...。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恩寵を受け入れる

2020-03-23 12:10:42 | 覚醒
一口に精神的覚醒とかエンライトメントの体験と言っても様々な様態があります。
まあ、そんな体験も無い、と身もフタもない観方もあるようですが...
例えば、所謂法悦状態というか、心身が揺すぶられ、爆発的な感情の解放のような状態を伴うものもありますが、これを"それはまだ本当に目覚めた境地ではない"、とする観方もあるようです。
もっと進むとそういう状態は後退して、より意識は明晰になって深く浸透してゆくようになるとか...
こう書くと、誰しもがそういう道程を歩むものかと思うかもしれませんが、一様ではないでしょう。
その法悦状態というもの自体も一様ではないと思われます。
よくそれを又忘我状態などと言ったりしますが、本当にそうなったら、そうなったことなど覚えてないでしょう。
私が初めて神的なものに捉えられた時など、人通りの多い駅前ビルの片隅でずっとワンワン泣いていた訳で、人目にはさぞかし奇異に映ったことでしょうが、我を忘れるどころかあんなに意識が明晰になったことは全くありませんでした。
それが取りも直さず、思いを超えたということだったのですが...そんなことは私の思われた人生ではあり得ないことで、私の力、思議など全く及ばないことであるのは言うまでもありません。それは恩寵としか言いようのないものなのです。
私はその神的な思し召しのようなことに対して、"それは今だしのものだった"、などと言える道理などあるでしょうか?
恩寵の前には、ただ感謝して受け入れるしかありませんi 
私することも出来ません。私するとは囚われること、主に取って代わり、自分でコントロール出来るかのように図ることなどです。
自分の力で、絶えず飛び回り続ける思考を断じることなど出来るでしょうか?
本当の覚醒の境地を目指して、それに到達出来る人間など居るでしょうか?...こういうことは思われた人間がどうこう出来ることではないのです。
すべては神の御手のうちにあることなのです。(こう書くと私は所謂自力修行を否定しているみたいですが、あくまで自力の及ばなくなる地点から先の消息のことを言っているのです)
あなたが何時、どんな状態の時に恩寵の光を受けるか..."あなたの最善の時"は神がご存じなのです。
その時、所謂法悦状態というものがあるかもしれないし、無いかもしれない...どっちみち受け入れるしかありません。
まあ、大体は私の場合もそうでしたが、段々見た目奇異な感じは落ち着いてきて、深く浸透してくるのが普通だと思われますが、何が本当のエンライトメントの境地か?...何てことはこちらが決められるようなことではないでしょう。
その道程のある局面を捉えるのでなく、初めから終わりまで神のなせる業ではないでしょうか?
恩寵には囚われず、受け入れることがあるばかりでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小島と大陸

2020-02-01 02:39:18 | 覚醒
私がこのブログを始めた頃、悟った人間気取りであろうとして、当然のことながら心底そういう感じがしてこないでいたのでした。
心底思えたことは、本当に悟った人間というのは、少しも"自分は悟ったのだ"、という痕跡を自身に残さないような人、他者については悟った人、悟っていない人という区別を立てない人、宮沢賢治のように、人類全体の悟り(があったとして)と自分の悟りとを切り離さないように感じている人だ、ということでした。
この意味で"悟った人間など居ない"、と言えるでしょう。
私は常に"自分が、ガ、我..."という思いから抜けきれず、"ああ、なんて自分はそういう人間とは程遠いんだi"、と感じながら、同時に他山の石のように感じていたのは、ネットなどで散見する、"私にはもう、エゴマインドは一切ありません。怒りとか悲しみ、恐れといった感情もありません。完全覚醒に達しているんですi"、などと宣う自称覚者方のお言葉や、悟り、覚醒などの周辺に群がる"悟ったらしい人たち"のとてもとても麗しい、"あなたのは今だしで、本当の悟りってーのは..."といった、悟りを自分に帰したがる、他に向けて講釈をしたがる議論、戯論の数々なのでした。
"私はああいう世界にゃ関わりたくない、いやもうドップリ浸かってしまっているのだろうか?"
どうしてこういう風に感じられるかというと、そこに本当の平安というものが感じられないからです。
どうして又そういう風に感じられるのか?、たまには平安に感じられることがあるからです。
それは"自分、自分が..."というものに思いが離れている?時...それが思いを超えたものー現臨と共にある、ということに他ならないのです。
自分を超えている、ということは"自分が"その自分を超える、ということとはまるっきり逆で、そういう自分は、その超えた当体に帰せられなければならないのです。
現臨...神、真我と言おうと、それは個我の大本、その依りどころ(みたいなもの)です。
その関係性についてよく例えられることで、これは非常に伝わってくるものがあるのですが、大海にポツンと浮かぶ小島が見えている自分だとして、それが海中で見えない大陸とつながっているようなものでしょう。
小島はそれのみが切り離されては、浮遊するか海中に没してしまい、その存在ごと失ってしまうように、限られた自己からの、自己追求に終始する悟りの道は、何処にも行き着かない虚無へと消え去ってしまうのではないでしょうか?
個のみから究極を目指すようなことは、大生命から分離するようなことではなかろうか?
といって、大陸の表れとしての小島というのも存在している訳で、"それは無い、全体しかない"、とも言えないでしょう。
目覚めというのは、この個であり、全てである自己の大本に目覚めることに他ならないのではないでしょうか?
それはどこまでも大本の意志あってのものですが、どうも年々地殻が鳴動しているのを覚えずにいられません。
誰かが言ってましたが、本当の悟りというものは、失われた大陸の急浮上みたいなものなのかも分かりません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個と普遍の覚醒

2020-01-09 11:59:13 | 覚醒
多くのノンデュアリティでは、"時間というものは元々無い"という説き方をしています。過去も未来も無いのだと。
従って、その界隈では2012年が過ぎても、今なお根強く信じられている所謂アセンション(これはこの世の終わりまで続くのか?、その関連の人たちは、"今年が大きな節目の時を迎える..."、と言っているようですが、う~ん、そうかな?)のこととか、地上天国の実現、あるいは世界の滅亡といった予言的なものには触れないのが普通です。
そして"今、ここにあるのが幸福なことで、完璧で、未来に起こるであろうようなことは幻想に過ぎない"、などと言ったりするのです。
私はその教えにハマりかけていた時、(例によって)そう思おうとするものの、どうしても心から思えない、感じられないものがあったのです。
(ていうか...これは、極めてあったり前のことを言ってますよね? 私はああいう特殊な人になろうとしていたのです。だって、それが常に悟った人のステータスのように言われていたから...ただ私のエゴマインドを擽られていただけという、じっつにイタイ話ですi)
これは、あの至福に与った時でもそうだったのです。私がそれに与ったとしても、心からそう感じさせない、体が頷いてくれないものがある...
それは私の見ている世界はそのように映っていないからです。
というより、この我々の現実世界とは、まんまその世界の裏返しではないかi
この意味は、実はその時垣間見せられた世界というか、意識状態に隠されていたようです。
"私は一コの私だけで生きているのでは無かったi ...私は私のままで、あらゆる他己とのつながりにおいて生きているのだった..."
これがこの世には求むべくもない、普遍世界というものの内実なのでしょう。
普遍というのは、私という私性無しでは決して認識出来るものではありません。だからノンデュアリティで言われるような、全体というもの、"全体しかない"、という言い回しにはどうしても頷くことが出来ません。
たとえ私が悟境に達し、救われたとしても私における、このつながりにおけるこの現実世界は如何?
個々の悟りや救いがあったとしても、それは所詮、"かたちんば"、不十分なものでしかないのではあるまいか? いや個が個のままからそれを求め、得られると思うこと自体が錯覚なのではあるまいか?
私は、"私は真の悟りを得た!"と自認する自称覚者たちにこう言ってみたいです。
"誰も真の悟りを得ることは出来ない!  何故ならば我々の世界はかくのごとくあるからだi"、と。
では、個的なものと、普遍的なものとが結び付いた、全一的な世界ごとの覚醒ともいうべきもの(これが神の国、地上天国の実現を映し出す)があるのでしょうか?
それは...神のみぞ知るところでしょう。
他の神の言葉に迷わされてはならない、あなたの神に聞くしかない...。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神慮と覚醒

2019-09-06 12:04:37 | 覚醒
"覚醒という事態は神的意志、神慮というもの無しに起こり得ない"とは、何度強調しても、し過ぎることはありません。
私がチョイと知ってる某は、"完全覚醒すると、宇宙の運行が妨げられるので、神(宇宙意志?)の意向に沿わない云々..."などとブログに書いていました。
分かるはずのない神の意志、宇宙の運行について、他人の教説に依存して、こういう空想ごと、妄想ごとにうつつを抜かしている御仁には覚醒といったことは決して起こらないでしょう。
何故ならば、そういう思考マインドというものを置いていかなければ、けっして覚醒の扉は開かれないからです。
まして"完全..."などと宣うとはi
こういう人はずっと自分の意志想念で、そういうものに与れるという思いを拭い去ることが出来ないようなのです。 どこまでも主我的なのです。
だからそういう心根をくすぐる"完全"、だの"究極"だのに思いが向いてしまうのでしょう。
こう、エラそうなこと言っている私は、実は神のことなど分からないし、そのご意志も分かったなどとは言えません。
でも、強烈にそういうものを感じたことはあります。言うまでもなく、思いを超えた事態の中で...ということは、それはもはや理屈でないということなんですが...
"今、私の実存に神的なものが臨んでいる...神と共にある..." これは、そもそも覚醒という事態は、実にこのことを他所にしてあろうはずのないことを言い表しているつもりですが、ここに"神のご意志が感じられる"...か、どうかは理屈ではどうかは知らんけど、こんな分かりきったことは無いのですi だからそうなっているのですから...
そう、神は私をそのみ元につなげることを望んでおられるのですi (こう書いていて"じんじん"と大変なのですi)
こういうことを理屈の沙汰にしている者には絶対に分かりようのないことです。
そして、神は同様にそこから私が離れることを悲しまれる...(そう、感じちゃったのですi)
さらに、神はずっと私と一つに在ることを望まれるようです。
私は完全覚醒とか、悟りの段階の頂点だとか、ここからズレるようなことは知らないし、知りたくもありません。
でも、私は感じました。神とずっと一つで在るということは...人間が考える生死の問題を超えているということを...
人間の倫理はどこまでも、"何がどうあっても、あなたは生きなければならないi"というものでしょう。
しかし、私が感じたのはこういうものです。
"お前がお前の世界で生きたいのなら、さあ、起きて行くがいい...でもずっとこの至福の世界で休み続けてもいいんだよ..."
誤解しないで頂きたいことは、この"ずっと神と共にある"ことは、直ちに死を意味することではないことです。まして自死の問題などではありません。
それは、"生きても、死んでも(?)"神と共にある、ということです。それは、この神を無きものにしている問題だらけの現世を生きる中でも可能なはずです。
しかし、それが普通に生活することが困難なくらい、超脱的、現世離れした在り方に導かれることもあるかもしれません。これはある意味では死を意味するのかも知れませんが...
中には本当に遷化したように、この世から無くなってしまうこともあるかもしれません。
そして、生きて生きるか、死んで生きるかは、私やあなたにゆだねられているのです。それは大本の自己の自由意志によるのでしょう。
どっちみち、このことはちっぽけな自分が思い描いているようなことじゃないのです。
観念ごとを超えて、真摯に神に、自己に向き合わなければ、けっして開かれないでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする