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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

どっちでもいい

2019-05-26 11:35:56 | 覚醒
"あっちのスレはまるで宗教戦争みたいだi"
"一瞥体験"のスレは避難所となり得るか?

宗教、スピには原理主義というものが付き物ですが、非二元原理主義ほどナンセンスなものはありません。
原理主義というもの自体、二元的観方から生まれるものでしょうのに。
"ああ...ラマナ.マハルシの言葉ですら、彼らの正しい原理を立てる道具になってしまうのか..."
"疑う主体がなくなってしまった"というコメントに対し、"それは疑う主体がないと言っている主体がある、と言っているのではないか"と返したら、それはもう、そこでマトモに話す気がなく(誰がこうした話に応じられようかi)、自説に固執し、相手をやりこめることに意識が行ってしまったことの表れという他ないでしょう。
何がかくまで彼らを自我の消滅に駆り立てるのでしょうか?
本当に自我が消滅したらこうしてブログを書くことも、掲示板で議論を戦わすことも出来なくなるはずです。
自我はあっていい、いや無きゃオカシイのです。
"悟った人"気取りの人は、この当たり前のコンコンチキのことが分からないのか、そんな思いは自分と共にどっかへ消えてしまったのだろう...
私はむしろビギナー(不適切な発言、失礼)のコメントから学ぶことが大きいです。
彼らの発言から基本的なことに立ち返らせてもらえるからです。彼らは概してあの身体中が痒くなってくる、持って回った、取り澄ましたような悟った人っぽい言い方はしません。
彼らはごくシンプルに"悟りたい、覚醒したいi"ようです。
私も色々言うけど、それ自体悪い訳じゃありません。正直な気持ちの吐露なんですから...
いや、ホント、世の中生きづらいのか、悟り、覚醒、一瞥体験を求める人って多いですねえ...求めているのは、イチイチ言う必要もなく自我からです。誰もがそうだったはずでしょう...これはしょーがないことです。悟った人気取りも例外ではないはず...
ただ、その求めの裏側に"見えざる導き"が隠れてたりするのです。
そして、うんうん唸りながら瞑想してても、足がシビレるだけだったものが、"思いがけなく"全身心がシビレる事態になったりすることもあるのです。
覚醒とは自我が思いを超えたものの前に降参してしまうことに他なりません。
"思いを超えたものがある"...これを蔑ろにすると、自我がそれに取って代わるようになってしまうのです。
そして自我はそれ自体を消滅させるか、限りなく肥大化させるように駆り立ててしまうのではないでしょうか? 自我ばかりになってしまうことが問題なのです。
では、思いを超えたものとは真我なのでしょうか?
"自我を観照するものは、自我なのか、真我なのか?"...理屈から言えば、それを超えたものでなければ、照らされるということは不可能でしょう。
しかし、私はどっちでもいいと思いますよ...どっちでもいいとは理屈などどっちでもいいということです。(自我か、真我かと立てるところに"本当の自分になりたがる思い"が増幅してくるのでしょう)
もし、そういうことになっていたら理屈でなしに感じられるはずだから...
誰ぞやも言ったように、神でも真我でも感じるものなのです。
これを蔑ろにするから、どこにも行き着かない議論に明け暮れてしまうのでしょう。

スピ関係のスレは、中々平穏にはゆかないものです。
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自然に書かされたこと

2019-04-18 12:26:10 | 覚醒
あなたは悟りたいと思いますか?
精神的目覚め、エンライトメントに与りたいですか?
私は、こうしてブログを書いているうち、どうでもよくなってしまいました。
といっても、"そんなの無くてもいい"、と言っている訳じゃありません。
何度も言っているようにそれは、"神的なものと共にある"ことから切り離されないことだからです。
ですから、そのことが無ければ、全くどうでもいいということです。
もっと言えば、そのことを蔑ろにしたならば、私の"重度の病"は永遠に克服出来ないことになっていたでしょう。
進歩した、霊的に進化した人間でありたい自分、より高い悟りの境地にありたい自分...この優越意識という病を克服出来なかったでしょう。否、まだ克服出来たなどとは言えません。ただ、そのガンジガラメ状態から離れられる突破口は見い出している、ということです。
このブログを始めた当初は、とにかくその口を求めてもがいていたものです。
"ぶっ飛んだ体験すりゃ、いいってもんじゃないですよi"...何てことを言ってみたりもします。
しかし、そこには"一時の体験に酔いしれるのは、泡沫みたいなもので、もっと高い、深い境地てーのは、いつも悟った状態にあることなんですよ~"と言いたい自分が見え隠れしている...そうなってるであろう自分を演じようとしていたのです。
そうですね、ちょっとした非二元カブレだったのです。
"そこでは神とか聖霊とかガイダンスなど、自分以外の何かを想定するのは、二元的見地なので..."なーんてこと考えたりしてバッカじゃなかろーかi
もし、私が度々言い表している、神的なもの、現臨というものにない悟り、覚醒というもの、そこから切り離され、一人歩きしたそうしたものは、一体どういうものになるでしょうか?
修行系の人には、そういう傾向が見受けられるものですが...。
そういう道を究めたことなど無いので、何とも言えませんが、その片鱗らしきものは経験しています。
"すべてが虚無のうちに消え去って行く..."これはそう感じている、意識している自分ごとが消えそうになる、という感じを言っているのです。
そこには如何なる幸福も、愛も、平安もありません。そんなものを求めている人間の気が知れませんi
それでも、あなたは悟りたいと思いますか?
いや、多くの人は、"悟ってエラくなりたい"ムキは別として、悟りというものに、幸福、愛、平安というものを求めているのではありませんか? それは人間としてこの世に生まれたものとして極めて当たり前な、自然な要求です。
諸々の教説のことは置いといて、背伸びや偽りのない自分自身に聞いてみて下さい。
それらは、ここに生きている、ということ自体のうちにある...それはそう在らしめているもの抜きにしてはあり得ない...そして、そのものから離れた悟りというものは無い...そのものにあるということなのであって、優劣というものは本来無い...
こうしたことは、この自然(じねん)に赴くということを意識してみれば自ずと示されることでしょう。
究極の悟りの道のようなことは、頭で思い描いているだけで、"ここには示されていない"のです。(示されることは私の病のことばかり...)
これはこうして自然に筆が、否、指が赴くままに書かされたことで気付かされたことです。
もう、書くことが祈りみたいに感じている次第なのです。


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すべての生を生きる

2019-04-04 12:12:39 | 覚醒
"悟ったとか覚醒したとかなどには意味なんて無い"
とか言っている人もまま居ります。
そうかもしれません。...
そういう人は、おそらく生きていることすらそのように感じているのでしょう。
意味というものを追求していったら、何事でも、どうしてもそうなりそうです。
だけど、その渦中にあったら、そう感じてなど居られるでしょうか?
思考がおぼつかないのに、"こうなってることに一体どういう意味があるのだろうか?"などと...んなアホなi
意味がどうとかというのは、言うまでもなく、そう考えられているということなのです。
そして、意味があろうと、なかろうとあなたは生きているでしょう。
自分は居ないと感じていようと、そういうあなたは生きているだろう...多分。
考える...何かが分かった、分からないというより先にそうなっているのです。考えなくっても分かるでしょi
考えているということは、"主観"という概念自体そう思考されている訳ですが、どこまでも主観なのです。
だけど、あなたが生きていることはそういうことでは片付けられません。
あなたが考えている以前からあなたは存在しているのだから...
つまり、我々がこうして生きているのは、我々の"一存"に依ってはいないのです。
私は居るとか居ない、とか勝手に決めつけられるものではありません。
この肉体も、精神も感情もすべては与えられている..."私はこう思ったi"なんてことは、私の"すべての生"からみたら、ほんのチッポケなことに過ぎないのです。
すべての生と言っていいのか、自己の大本と言っていいのか、そういうもの抜きにこの生というものは"考えられませんi"
このつながりを蔑ろにした、限りある自己だけで完結してしまうような、悟りといったものは、それこそ無意味でしょう。
しかし、意識する、しないに関わらず誰もがそれとつながりたいと感じているハズです。自然なる要求として。
意味は分からずとも、"最愛なるものと出会いたい"、"最高に生きたいi"と感じているのではありませんか?
ここに生きている、生かされているということは、思われた自己とその元の自己とが相惹きあっていると感じずにおれません。
"私は、その元から愛されてなどいないi"などと言うなかれi あなたは現に生きているのではないかi
一人一人こうして生を享けていることは、最愛なるものから言わば、根源的な"令"みたいなものを受けているということなんじゃないかと思います。
そして、こちらは無条件にそれに赴かざるを得ないのです。
こういうことは、生きることそれ自体のうちにあると言えるでしょう。
悟りといったものは"すべての生"と切り離されて語られるものではない...悟りというと特別なものというイメージが付きまとうものですが、すべての生を生きることは万人に開かれているハズです。
"すべての生"を、思われた自分のことだけで考えている人には分からないでしょう。
そんなことより、あなたには、あなたの私には、私の生がある...。

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本があって末がある

2019-01-30 11:57:13 | 覚醒
私は毎度、例えば"気付きにはそうさせるものがある"というようなことを言っていますが、これはこの自分に先だって、その元があるということを言っているのです。
見える形として自分だけがここにポツンとある訳じゃない...その自分には見えない元、本があるのです。
本があれば、その末というものもある...それがこの自分とも言えるかと思います。
で、その端の、その末端とも言うべき頭で何かを分かろうとする...理屈では分かったつもりになっても、どうも腑に落ちない(これは実にうがった表現です)感じがする...身はちっとも頷いてくれない..."そうじゃあないか?"と自分の内に向けて尋ねてみる...すると、これが自分の頭と別に"その通りだi"と、身体中が"ウン、ウン"と頷いているではないかi 
悟りだとか、エンライトメントとかいうことでも、それは本なるものの方が末を通路にして表に顕われる、ということなのではないでしょうか?
本の方無くしては起こり得ないことでしょう。もし、それが如何にブッ飛んだ、眩いばかりの体験だったとしても、本から切り離されたそれは自体、本体の無い"がらんどう"みたいなもので、中空をさ迷い続けるだけのものでしょう。
だから、"体験すりゃいいってもんじゃないi"と言わざるを得ないのです。
悟り体験だけが一人歩きした"悟りゲーム"のようなものなど、ホントーにナンセンスの極みです。
そういう界隈では、やたらと体験したかどうか、といったことに囚われる...しかし、実際にそういう著しい体験に与ったことが無くとも、思われた自分を超えた、自分の本から息付いているこのものを感じることは、分かる人には分かるものです。
それは例えば"何だか理由が無くとも有り難くてしょうがない"という気持ちの発露からかもしれません。
もっともこれ自体が一つの体験ならぬ体験とも言えるかも知れませんが、こういうこと(感謝、祈りの心持ち)が分からない人は、多分どんな超絶体験をしようと"本"には"当たる"ことは無いでしょう。
逆に頭だけで分かったつもりになって、"最初から悟っている"などと、何もリアリティの無い観念世界に留まり続ける末端だけの人間...
もう、先がありませんぞi
こういうことは、古来からずっと言われ続けていることなのです。敬虔なものにしか道は開かれないのだと...
そうなれる、なれないは別にして"無"だとか"空"だとか...
これは実に倫理の問題じゃない...頭が高い人間には本なるものが通ることは出来ないということなのです。
仮にそのようなことがあったとしても、末の方で何かが障り、滞っていたら、その分歪んだ、本なるものに暗いものへと変質するまででしょう。末は本に開かれていなければならないのです。
末である我々は、その本にただただ合わして、会わして頂くのみ...それが祈りと瞑想の本となるものというものではないか?
一定時間そういうことをしているなんてもんじゃないのです。
私など、こうして書かされる、ということは意識が向けられるということなのですが、これがもう...
何が何だか有り難くてしょうがない、じゃありませんかi
もう、ジンジンしてきて筋道立てて書くことも困難になってきた...これでいいのか?
"ウン、ウン"...こりゃ何か分からんが、分かりすぎだよi
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悟りとは何か?

2018-10-05 12:08:37 | 覚醒
随分と改まったようなテーマですが、"悟りとは何か"も何も悟りとは程遠い私などが偉そうなこと言える道理など無いのです。
ただ、最近どうも元々その内実が曖昧なこの言葉を巡り、方々で言われていることから、大分観方、感じ方が錯綜しているように感じられてならないのです。
これはかつては文字通り"悟道に達した"とか、特別な人間(思われる)にしか与り知れないとされていたものが、フツーの人間にも身近な問題となり、検証もなされ始めたことを物語っているとも思われます。
古くから宗教、スピに関心をもった方なら誰しもが、漠然と悟りというもののイメージは抱いたことはあるでしょう。
悟りという言葉は仏教方面から来たものですが、所謂"宗教的回心"(覚醒とか一瞥という言葉もかつては一般的でなかった)と結びつけられていた面もあったと思います。(だから私のように"ついに私は悟ったi"と勘違いする人間も居るのです)
何にしろ悟りとは、宗教的世界で言い伝えられていたものだったのは確かなことと思います。
ということは、それは多く神仏への帰依ともつながりがあったということなのです。
これが最近のスピ界では"越権"してきて、極端な、決めつけたような非二元の教えが横行するようになったのです。
(中でもその最大の越権行為とは、"あなたは既に目覚めているのですよ、全体と一つなのですよ、探求はもう終わっているのですよ"と人それぞれの内的な道の在り方を無視した、"既に分かっているつもりの境地"に誘導してしまう物言いでしょう。これ程の一人一人の生に対する蹂躙は無いでしょう)
"私という個は無い"ということも"ある感じ"としては、あるのでしょうが、それが究極の真理のように説かれてしまうことで、不幸も幸福も感じない、生きる意欲も失せてきて、現実生活には適応出来ない生き方にもなりかねなくなる訳です。
故.エンライトさんなどが、"悟りの道は人間廃業の道である"と、その一人歩きした安直な非二元的悟りの道へ警鐘を鳴らしたことは実に意義があったと感じています。
しかし、一方では悟りとされている道のすべてがそういうものに赴いてしまうという、誤解を与えてしまった気来も無いではありません。
(前述のように、悟りというもの自体錯綜して語られるものなので、ここは"非二元的な道"という括りで語った方がいいように思います)
まず、どうして古来より様々な宗教や経典や聖人とされる人たちを通じて、悟りなるものが言い伝えられてきたかについて思いを致すに、人間が人間でなくなる道など今に至るまで、残っていようはずなど無いとは考えられないでしょうか?
それはより生きやすい、より幸福な生き方として示されて来たものではなかったでしょうか?
そしてそれは、欠かすことの出来ない根本的なものとして据えられるものではあれ、それのみがその道から切り離され、一人歩きしてしまうものではなかったのです。
悟りの道とは本来、帰依心とか敬虔さなどの素養を身に付けていないものには、開かれないものだったのです(宗教と関わらずとも元々身に付けている者は居ますが)。
この事が蔑ろにされた時、究極の悟りの境地らしきものを目指しての所謂"悟りゲーム"のようなものが横行するようになるのです。
その究極の悟りでは自己も無くなり、神も、恩寵も如何なるものも無くなってしまうらしい(全体も無くならないとオカシイのです)。しかし、究極に至った末、そう感じる自己もすべて無くなってしまうとは、究極のオチではないでしょうか?
究極の境地というのは、多分頭の中にしか無いでしょう。これらは、自分で悟れると思っているところから錯覚するのでしょう。
とはいえ、ご存じの通り、宗教はもう、胡散臭いものの代名詞のようにも成り下がり、その命たらしめていた神的なハタラキも廃れてしまった感もあり、私自身も"宗教的素養を身に付けろ!"などと言う義理もありません。
しかし、私の場合、何度も言うように、神的なものそのもの無しにはその道は開かれなかったことを強く感じざるを得ないのです。
だからそれは"自分が有るか、無いか"ということだけで、語られてしまうものでは無かった...むしろ強く感じたことは、そのもの無しに私は存在出来ないということだったのです。
だから、その境地に達したなどとは言えない訳で、しかも年がら年中狼狽えたり、取り乱したりで余計そんなのとは程遠いと感じている次第なのです。
結論、悟りとは何かって? "よく分からないものだ"...やっと悟ったi?


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