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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神とエネルギー

2021-05-16 10:14:35 | 覚醒
「われわれにとっては、ダンマよりも如来という表現の方が、いっそう親しいものであり、肌身に感応されるものであり、より人格的であるといえよう」
(玉城康四郎「仏教の根底にあるもの」/講談社学術文庫)
「キリストに本当に出会ったら、ひれ伏し、倒れ、降参することになるはづです」
「聖霊の現実は言うまでもなく愛の現実で、愛ほど現実感のつよいものはないです」
(小池辰雄著作集第三巻「無の神学」/著作集刊行会)

私が"じんじんしてくる"と、具体的な感覚を伴うものとして表現しているものは、ある種のバイブレーションのような感じ、私の存在を通してそうしたエネルギー交換が起きていることを言っているのです。
私は昭和57年当時、この感覚を取り戻し、ひいては人生を一変するであろう、精神的覚醒に与らんと願い求めていたのでした。
聖霊といわんか、観音妙智力といわんか、とにかくそういう不可知のエネルギーに触れれば、劇的変容が起こるものと思い込んでいたのです。
しかし、当時夢中になって読んでいた「ヨーガ霊動法」という本を詳しく紐解けば...密教的観法に関わることで、何か邪霊的な因縁に巻き込まれたとか、日本におけるスブド創設に関わったある会員が、常軌を逸した行動に走ったとか、ラティハンを修することにより精神的バランスが崩れるという事例がある、など好ましくないことも色々書かれてあったのです。
このことが、求めてやまない気持ちを抱きながらも、一歩踏み込めない気持ちにさせていたのも事実なのでした。
"ここには何かが足りないか、何か純粋なものに向かわせない余計なものが介在、混在しているのではないか?...小池先生や手島先生(当時は、聖霊体験に導く道も各種の霊動法に関係していると理解されていたのです)の本から受ける感じとは何かが違う..."
私は薄々と感じ取っていたのです。
このことは翌年の夏、念願が叶ったのか、その精神的目覚めに与った時に、ありありと示されたのですi
覚醒体験そのもののことでしたら、先の超エネルギー的なものに触れることによって起こり得るでしょう。
しかし、そのことと最愛なるもの、神的な現存と意識の内奥で出会うということは、別のことと言わねばならないでしょう。
覚醒したからと言って、その後の人生が幸福に導かれるとは限らない...それによってむしろ狂ってしまうことだってあり得るのです。
故に..."体験すりゃいいってもんじゃないi"、と言うのですi
要するに、愛と平安に導かれるか、どうかということに尽きるでしょう。
あるバイブレーション感覚がもたらされたとして、何か意識の拡大みたいなこともありますが、それだけでそういうものに導かれたりはしないのです。私の経験では。
これが愛と平安は、神的な現存と共にあると言っている所以なのです。
精神的目覚めにあっては、あるエネルギー交換、その流入といったものがあるのは確かなことでしょう。
しかし、その力は、神的なものとイコールであるとは言えないでしょう。
神的なものから来るのかもしれませんが、神的実在はもっと包括的なもので、もっと我々の深部に息づき、開示してくるものと言えるでしょう。
とはいえ、言うまでもなく、あの当時はこういうことは、意識的に、自覚的になっていなかったのでした。
生来からの自我性の強さから自由になっていなかったのです。何とも神経症じみてるではないか?

"すべてがガラス越しに映っている...ありありと真向かいに会えるものは無いのか?...ああ、無条件に僕が飛び込んでゆけるもの、そこでぶっ倒れても構わないものは無いのかi"

神経症じみた私の精神の奥で、こういう叫びに駆られるものが、息づいているのをどっかで覚えられていたのでした...。
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真理の方が迫ってくる

2021-03-10 10:07:30 | 覚醒
「悟らないでいる時は人の方が真理に迫って行こうとするが、悟る時は真理の方が迫ってくる...」(菩提達磨)

ある本に引用されていた言葉だけど...これは来たあi...
"じんじん"...耳も"きんきん"鳴りっぱなしi...
来るものがあるi...思いの雲間を破ってやって来る、臨んで来る...
如来さまか?...その語源は諸説あるようだけど、正に"来るが如きもの"に違いありません。
"悟りたいi、目覚めに与りたいi"...苦しく、生きづらい浮き世にあって、その切なる願い...分かりますよ。
でも、中々そうならないでいる人は、その現実にしっかり向き合い、この言葉を味わってみて下さいi
達磨さんと言えば、インドから中国に禅を伝えた、いわゆる禅宗の始祖とされる人です。
しかし、この言葉には、禅も念仏も、自力も他力も、いや仏教もキリスト教も他の宗教も超えられている消息が感じられるでしょう。
人が悟りを救いを求める先に、悟らしめ、救わしめようとするものがあるi...否でも応でも、人をその下につなぎとめずにおかないものがあるi
ここから外れて、如何なる悟りも、目覚めも、救いも無いでしょう。
否応無しに...ここに大いなる逆説があります。
あなたはどうしてそれを拒み続けるのか?
あの御方が迫ってくる、手をかけようとされる...もう、そうなると逃れようがありませんよi
あの御方はあなたの性向、因縁、すべてのことをご存知なのです。何時、そのみ手の内に落ちてしまうかということも...
何時?...あなたがその迫りを感じた時でしょう。
もし、そのヒタヒタと迫りくるものを感じたなら...それにうち任すしかありませんi
任そうとしないのは、思われた自分が拒み続けているということでしょう。
彼は知らないのです。み手の内に落ちることがどういうことかを...任すしかない、任せられてしまうということがどういうことかを...
最愛なるものとの出会いというものがどういうものなのかを...彼の中には次愛なるもので一杯だ、あの御方によって粉砕されるまでは...
どうやったら悟れるのか、と血迷ったことを目論み、その導きを遮ってはなりませんi...すべては主なる御方が主導されるのだから...
そして、その悟り、救いというものは、主なる御方と一つになることの他にはありません。
ここから外れてそういうものは無いのですi

と、どうして又私は、いつになく(?)偉そうに決めつけたことを書かされているのでしょう。
しょうがないのです。そう迫ってくるものを感じているので...
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自分を超えたものが目覚める

2020-11-08 09:39:42 | 覚醒
私が日頃、精神的目覚めや意識の変容といったことについて、基本的に感じていることを改めて書いてみます。とても大事なことなので...。
"思いを超える"、ということ、そうでなければ、そういうことに与ることは出来ない、といつも言っています。
これは、誤解し勝ちなことですが、自分"が"思いを超えるということではありません。
自分が...、ということは、"自分の思いから"、ということに他ならないのですから...
中には断食とか絶食とか、色々な修行、メソッドに取り組み、一時的に思いから離れることもあるかもしれません。
だけど、"自分で思いを超えた"、という念はずっとあるんじゃないですか?
これ、自分の思いから出発して、地球を一周して、又そこに戻ってくるようなことじゃないですか?
そこで、"自分は目覚めた、悟ったi"、と錯覚したりして...どこまでも主我的なことから抜けきれず、その自覚も無いまま、自我がますます肥大化することにもなりかねなくなるのです。
こういうことは、その目覚める主体というもの、何が目覚めるのか、ということが明らかになっていないところからくるのでしょう。
思われた自分が目覚めるということではない...これは言い方は微妙ですが、ここの理解の在り方次第で、天と地ほどの開きが出てくるようなことなのです。
して、自分が感じた通りのことを有り体に言えば、"自分を超えたものが目覚める"、ということになるでしょうか?
表層意識に隠れていた、自我性を超えた意識が顕わになる、ということ...元々思いを超えたものが表れる...だから自分が思いを超えようとトライするのは、一寸ズレたことと言わざるを得ません。
要するに、業生の自分が目覚めたり、悟ったりする訳じゃないということです。
そして、この超個的な私の顕現は、何らかの神的なものが臨むような機縁によって、あたかも磁石に、他の鉱物は置かれたまま、鉄分のみが引き寄せられるように、その臨在と一つにされてゆくのです。
この超個的なハタラキの前には、思われた個我意識は場所を譲らずに居れなくなる...主体の転換がなされる...そういう劇的変容の様を思われた私は、為すすべもなく、傍観者のように見てるより他ありません。
自分が...という思いが強いということは、その思いを超えたものの表出する通路を塞ぐことに他なりません。
意識を常に開いていることが如何に大切かが知られるでしょう。
内なる神性というもの、それは思われた私以上の、私そのものに違いありません。
しかし、思われた私にとっては、絶対他者であることも確かなことなのでしょう。
コメント (5)
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悟りと神人合一

2020-10-29 12:04:47 | 覚醒
昔から女性で、"悟った人、覚者"という存在はあまり聞きません。
こういうものは、男性のイメージが付きもののようです。裏を返せば女性は、そういう世界とはあまり縁が無いとも言えそうなのですが...。
しかし、私には断然、元からして女性の方が天国に、救いに近い存在だと思えてならないのです。
上記の傾向の理由として、女性からはそういうことへの言及が、あまり為されることが無いから...つまりは、そういうパッションが元々希薄で、自然とそっちに赴くことが無い、ということなのでしょう。
これは、それだけ主我的な思いに囚われることが少ない、ということを表しているのではないでしょうか? これだけでどんだけ救いに近いことかi
今、ネット界隈で、"悟り、覚醒"といったことについて覗いてみれば...そこに如何に主我的な、我見への固執の思いが渦巻いているかが知られるでしょう。
悟り、覚醒の何が本物で、完全なもので、あっちは偽物で、今だしのもので...、とこっちはそういう我見がそう言っているのです。
そうして、主我的な思いから離れなければダメなんだ、と頭では分かってはいても、離れようとして、離れられずにもがいているよう...これ、男のサガなんだからしょうがありませんi
そこへ行くと、女性の方は元々その頭でっかちの、忌まわしき傾向は抑えられ、ただただ、最愛のものと一つになりたい、結ばれたい、というパッションに駆られて行くのです。
当然のことながら、男のサガを抱えている私自身は、私"が"悟ろうとすることと、この合一への願いと、どちらに自然に意識が向かわされるかというと...もう自明ではないかi...書いてるだけで"じんじん"してきますよi
我が魂は、本当のホーム、最愛なるものとつながらなければ、安らぐことが出来ないのですi
そもそも、そのもの無くして悟りも覚醒も無いのであれば、それに偏って追い求めることなどどうでもよいではないか?
そして、神的なものとつながることで、主我的な思いから離れられるのです。
しかしながら、多くの場合、女性の最愛なるものとは、"最愛なる人"のことであるのは言うまでもないでしょう。
でも、その存在を自分の中に元々息づいている、愛そのものの光に照らして、深く心に感じてみれば...その存在を通し、その存在を超えて、多くの恋歌で歌われて来た、"永遠の愛ーこれが形なき最愛なるものと共にある愛に他なるまいiー"に目覚めることが出来るかもしれないのですi
女性は、このように本性から"明け渡し"の美徳を備えていると言えるでしょう。
この美徳無くして、もう、この世界はもう立ち行かなくなるのではないか?
故に、女無くして世は開かれない...。
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根本的幸福状態

2020-07-16 11:49:12 | 覚醒
悟りとか覚醒という言葉は漠然としていて、その観方、感じ方というのはマチマチなのです。
この他一瞥とかワンネス体験というのもあり、それらが同じものとして語られたりもしますが、近年では一瞥とか覚醒というのは、中途の段階であり、より進んだ段階が悟りである、という観方が増えてきたようです。
しかし、それらのことは全く日常の意識状態、思いを超えたものであり、こういう解釈はあたかも自分の意志で、修行に則ってその段階を進められるかのようなイメージを与えてしまうようです。
言うまでもなく、自分の意志で悟る、目覚めることはおろか、自分の思考を止めることすら出来ないのです。
又、こうしたものに段階、レベルといった基準を持ち込むこと自体が、"自分が"という意識の表れを感じないでもありません。
そして又、悟りの最終段階、最終解脱というものが、自我意識というものが完全に無くなって、幸福感というものすら感じなくなってしまうとしたら、そもそも"段々高度になってゆく"、というような基準を持ち込む意味も無くなってしまうのではないでしょうか?
死んだらどうなるか分かりませんが、我々は"目の黒いうち"のことを考え、感じていればいいのではないでしょうか?
生きている人間は、誰でも幸福になることを望んでいるのでしょう? 悟りや覚醒もそのことと結びついているのも分かりきった話なのです。
まだ邦訳が無いようですが、多くの覚醒(悟り)経験者の報告を基に研究している、「ジェフリー.マーティン」という米国の心理学者は、「人間が一番幸福な状態とは、最終段階の一歩手前の段階ではないだろうか?」と述べていますが、それは、彼が"根本的幸福状態"(Fundamental.Well-being)と呼ぶ意識がずっと継続している段階なのだそうです。実は彼は段階という言い方は避けて、"location"(これは一つの在り方、又は置かれた場所というような意味でしょうか?)という言い方をしていて、前記したようなことを含ませているようなのです。
この状態こそ、ラマナ.マハルシなどが言っていた、表層的な境遇如何に関わらず、何かを得たり、失うことに左右されるような幸福でない、本来的な幸福に他なりません。本来的というのは、それが人間の本来の在り方ということでもあります。
ということは、そういう境地を目指して到達されるようなものではない、ということです。
本来なるものから切り離されて、"自分が"何かに到達しようとすることで、その自分は完全消滅してしまうのでしょうか?
それが幸福なことなのか、どうかは分かりません。
人間は本来、その在り方も生きること自体も、"与えられてある"ものであり、その源、大本と共にあることが根本的"location"というものなのでしょう。
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