Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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中庸  第九章

2019-11-20 11:02:39 | Weblog


秋明菊の綿毛

斉明盛服、非礼不動、所以脩身也、去讒遠色、賤貨而貴德、所以勧賢也、尊其位重其祿、同其好悪、所以勧親親也、官盛任使、所以勧大臣也、忠信重禄、所以勧士也、時使薄斂、所以勧百姓也、日省月試、既稟稱事、所以勧百工也、送往迎来、嘉善而矜不能、所以柔遠人也、継絶世、 拳廃国、治乱持危、朝聘以時、厚往而薄来、所以懷諸候也、

凡為天下国家、有九経、所以行之者一也、

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斉明盛服して、礼に非ざれば動かざるは、身を修むる所以なり。 讒を去り色を遠ざけて、貨を賎しみて徳を貴ぶは、 賢を勧むる所以なり。 其の位を尊くし其の禄を重くし、其の好悪を同じくするは、親(親しむこと)を親しむを勧むる所以なり。 官盛んにして任使せしむるは、大臣を勧むる所以なり。 忠信にして禄を重くするは、士を勧むる所以なり。 時に使いて斂(おさ)むるは、百姓を勧むる所以なり。 日に省み月に試みて、既稟事に称(かな)うは、百工を勧むる所以なり。 往くを送り来るを迎え、善を嘉(よみ)して不能を矜(あわ)れむは、 遠人を柔らぐる所以なり。 絶世を継ぎ、廃国を挙げ、乱れたるを治め危うきを持し、 朝聘(ちょうへい)は時を以てせしめ、往くを厚くして来たるを薄くするは、諸候を懐くる所以なり。

凡そ天下国家を為むるに、九経有り。 之を行う所以の者は一(いつ)なり。

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(では、九経をそれぞれに全うするにはどうすればよいか。) 潔斎して身を清め立派な礼服を身に付け、何事も礼の定めに適う様に行動すると、それが我が身を修めるということになる。 讒言を退け女色を遠ざけ、貨財を軽く観て人の徳を尊重して行くと、 それが賢人を励ますことになる。 その位を高くし俸禄を多くして、好むこと憎むことを共に分かち合う様にすると、それが肉親を励ますことになる。 官職が備わって、それぞれに権威を持ち、それを大臣が自由に任命して働かせる様にすると、それが大臣を励ますことになる。 真心から対応して、その俸禄を重くして行くと、それが士人たちを励ますことになる。 公務の使役は(農事を妨げない)農閑期だけにし、(国の費用を節約して)納税を少なくすると、それが万民を励ますことになる。 日ごと月ごとにその工作を点検し、仕事ぶりに応じた扶持米を与える様にすること、それが諸々の工人たちを励ますことになる。 遠いくにへ帰って行く時は鄭重に送り出し、やって来た時は鄭重に迎え入れ、(中国の文化を身に付けた)立派な人物は褒め称え、駄目な人物には思いやって優しくすると、それが遠い異国の人々を和らげることになる。 世継ぎの絶えた国は後継ぎを立ててやり、滅びた国はまた興してやり、乱れた国は治まる様に、傾いた国は立ち直る様にして、諸侯が自分で朝廷に出向く朝の礼と、重臣を派遣する聘の礼とを(混乱のない様に)一定の時に行わせ、こちらからの(賜り物や宴会)の施しは手厚くし、向こうからの貢物は軽くさせると云うことにすると、それが諸侯たちを懐け従えることになる。

すべて天下や国や家を上手く治めて行くのには、(この様に)九経つまり九つの原則と云うものがある。しかし、それらを実践する為の根本はと云えば、ただ一つである。


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◆鎌倉幕府の第2の政治体制 執権政治はいつから始まったのか?

2019-11-20 03:58:46 | Weblog


2代将軍・源頼家が北条時政に幽閉された修禅寺(静岡県伊豆市)


北条泰時


北条義時


北条時政

『鎌倉幕府は将軍独裁政治の後執権政治の時代に入ったといわれる。しかし、その成立時期はいつなのか、今だ謎とされている。』

鎌倉幕府の政治体制は、将軍独裁政治・執権政治・得宗専制政治の3段階でとらえられることが多い。しかし、これら3つの政治体制の成立時期、則ち、その政治の始まりの時期については諸説あり、定かでない部分がある。 第1段階の将軍独裁政治の始まりは鎌倉幕府の成立時期とされ、建久3(1192)年が通説になっていた。しかし、近年、幕府の成立時期が見直され、現在では1192年説を否定する学者・研究者も少なくない。 第3段階の得宗専制政治は、北条氏の家督である得宗個人が最高権力者となった体制をいうが、この成立時についても説が分かれている。鎌倉幕府の成立時期及び得宗専制政治の始まりの検証には、それだけ多くの紙幅を割くことになる為、ここでは将軍独裁政治の後を引き継ぎ、後の得宗専制政治へと移行して行く執権政治の成立時期について検討して行くことにしたい。 執権の国語としての意味は「政治の実権を握ること、またはその人」であり、鎌倉幕府の場合、執権と聞いて多くの人が直ぐに頭に浮かべるのは北条氏だろう。しかし、具体的に、北条氏の誰の時代に執権政治が成立したのかと問われると、答えに窮するのではないだろうか。実際、学者や研究者の間でも説が分かれており、以下、順にそれらの説を見て行くことにしよう。 第1の説は、北条時政が政所別当(長官)になった建仁3(1203)年と見る。時政は頼朝の義父(北条政子の父)で、初代執権とされる幕府創業期の実力者だ、正治元(1199)年、頼朝が亡くなり、建仁2(1202)年には長男の頼家が将軍になったが、時政は頼家の後ろ盾になっていた比企能員の一族を滅ぼし(比企の乱)、頼家を伊豆・修禅寺に幽閉して弟の実朝を将軍に立てた。こうして時政は実朝の後見として幕府の実権を握り、実朝に代わって自分一人だけが署名する下知状を用いて政務を執行した。鎌倉幕府の歴史を伝える「吾妻鏡」は時政の地位を「執権」と記している。

*執権政治の始まりは泰時の時代か  
第2の説は北条義時が政所別当になった元久2(1205)年と見る。義時は時政の子で、2代執権として姉・政子と共に幕府を取り仕切った。義時と政子は、父・時政が実朝を廃して平賀朝雅を将軍に立てようとしていることを知り、時政を幕府から追放した。「吾妻鏡」は義時が執権のことを奉った(継承した)と記している。 第3の説は、義時が和田義盛を討ち、政所別当を兼ねた建保元(1213)年と見る。義盛は鎌倉幕府の初代侍所別当だったが、義時の謀計にかかって北条氏と戦い、一族は全滅した(和田合戦)。義時は一般政務と財政事務を司る政所と御家人を組織し統制する侍所の両方の別当になったことで、その地位を確固たるものとした。 以上のぞれぞれの説にあげられた時期は、鎌倉幕府の政治体制が新たなる局面に入る節目にあたり、いずれも執権政治の成立時期と見ることができそうだ。しかし、歴史学者の五味文彦氏は「時政・義時の『執権』とは、将軍の執事或いは後見のことであり、理非決断の権限はあくまでも将軍や政子にあった。泰時以後に於いて初めて理非決断の権限を有する執権が成立した」(五味文彦著『大系日本の歴史5 鎌倉と京』小学館)とされる。泰時は義時の子で、3代執権として武家の法典である御成敗式目(貞永式目)を制定したことで知られる。その泰時は、嘉禄元(1225)年、政子の死後、評定所という新たな政治の場を創設した。泰時は有力御家人の中から評定衆を選び、評定所に於いて執権主催の評定会議を開き、ここで訴訟の理非の決断をはじめとする幕府の重要事項を決定して行った。 しかし、五味氏は評定所には「もはや将軍の占める座はなく、将軍の理非決断権は将軍から執権主催の評定に遷された」(前掲書)と述べている。 ということで、現在では泰時による評定所の設置を執権政治の始まりと見る説が有力である。


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