1週間ほど前、寝しなに夫とボソボソ話をしていたとき、夫が、
「とんでもないことが起きたと思っても、あとになってみると、それが起きてよかったのだと思うことってあるよね」
と言った。
私は中国の言い伝えの、塞翁が馬を教えてあげようと思ったのだが、話の初めのほうがうろ覚えだったので、またいつか話すことにした。
先週末、車に乗っていたときにそのことを思い出し、スマートフォンでストーリーを調べて説明し始めた。
しばらく黙って聞いていた夫が、
「なんでまたその話をするの?」
と言う。
「え、この話、知ってた?」
「この前、教えてくれたじゃない。馬が逃げて、どうとかって」
「・・・・・」
私は絶対に話していない。なぜなら、冒頭のその馬の部分を思い出せなかったのだから、馬の話をするわけがない。
覚えていたのは、息子が脚を折ったことで戦に行かなくてもよくなった、という部分だけだったんだから。
いったい、どの私が話してきかせたというのだ。
話そうと思ったけど、うろ覚えだからやめた世界の私と、
ちゃんと覚えていて話してきかせた世界の私が、両方存在しているのか?
この世界にはたくさんのタイムラインが同時に進行していると聞いたことがある。
私たちは、知らないうちにいくつものタイムラインを行ったり来たりしているというのだ。
だから、同じ体験を共有したはずの人と話が食い違ったり、世界的な出来事の結末が、記憶と違っていたりということが起こる。
しかし、こんな些細などうでもいいことにもタイムラインがあるのだろうか。
狐につままれたような、とはこんなことである。
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