太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

母の命日

2024-09-03 07:23:06 | 日記
9月1日は、母の3回目の命日だった。
姉と妹と姪3と、帰省していた甥が墓参りに行ったそうだ。
私は夫と、母の話をして、その日を過ごした。

「3年たっても、頭ではわかっていても、気持ちの上でまだ本当じゃない気がしてる」

と私が言うと、夫が

「うん、Closure してないからね」

Closure 、つまり、ちゃんと終えてないということ。
父が亡くなった時はそこにいて、お寺のことで姉妹で奔走したり、父の身体を洗ったり、棺にお花を入れたり、お通夜も葬儀もやって、父の死をしっかり納得することができた。
けれど、母は、パンデミックの1番厳しい時期で、私は会いに行くことができなかった。
2019年の12月に、父の葬儀のあと、

「じゃあまたね、おかあさん」

と言って手を振ったのが最後で、それきりだ。
パンデミック中は、私のような人がたくさんいただろうと思う。


亡くなった翌日ぐらいに、母は私の夢に出てきて、「私がいなくても大丈夫」というようなメッセージをくれたし、
「死ぬときに持っていけるものは体験だけ。だからもっとたくさん楽しい体験をしなよ」というようなメッセージをくれたこともあった。

そのあとは、めっきり出てこなくなった。
命日ぐらい夢に出てきてよ、と頼んだのに、来なかった。
あっちで楽しくやってるのかな。こっちでは3年は長いけれど、あっちではあっという間なんだろう。

13年前、ハワイに来たとき。

母は私のように、不思議な話が大好きな人で、目に見えない世界のことも信じていた。
だから父が亡くなった日、リハビリ病院にいた母の元に父がやってきたときも、驚かなかった。

「さあちゃん(母は父のことをそう呼んだ)、あんた死んじゃったってじゃん(死んじゃったっていうじゃないの、という静岡弁)」

と母が言うと、

「おぅ」

父はそう言って笑ったという。


母の晩年、帰国して母と過ごしているとき、母がいなくなったらと思っただけで泣きそうになった。
デイサービスで覚えてきた、新聞紙で作る箱の作りかけが、いくつもテーブルの上にあるのを見て胸がつまり、
「おかあさん、こんなの残して死なないでよ」
と私が言うと、母は笑って、
「まぁだ行かないよ」
と言った。

それなのに、母が亡くなっても、私は涙も出なかった。
悲しいとかさみしいとかいうよりも、茫然としていて、それがまだ続いているような気がする。



母に言いたい言葉は、ただひとつ。
私たちの母親を一生懸命やってくれてありがとう。
「じゃあまたね、おかあさん」