ハワイは今日は母の日である。
夫の両親が会員になっているヨットクラブで、友人らと母の日のブランチのテーブルを囲むのが
ここ数年の恒例となっている。
アメリカの母の日は、母であるすべての人に感謝を送る。
つまり子供が母親だけにではなく、夫が妻に、親が子供に(その子供が親である場合)
誰かの母親である友達に、という具合に。
グリーティングカードが発達しているこの国では、ほぼすべての場合を想定したカードが売っている。
職場の同僚が、息子や娘の写真を見せてくれる。
お世辞抜きに、ものすごいハンサムだったりする。
「かっこいいねえー」
褒めると、必ず彼らは言う。
「そうなの。すごくすてきなのよ」
イケメン(死語?)息子に囲まれた同僚の写真は誇らしげで、ほほえましい。
彼らは、日本人のように身内を謙遜しない。
夫と結婚して間もないころ、日本に遊びに来たシュートメに夫の話をしたとき、
「わかるわ、彼はそういう心が温かいすばらしい人間なの」
と言ったので驚いたことがあった。
そんなふうに手放しで身内を褒める人を見たことがなかったから、とても新鮮だった。
日本社会は、内輪のことは落としておくほうが無難、という暗黙のルールで成り立っていることを
改めて認識させられたできごとでもあった。
夜間のインテリア学校に通っていた時の仲間で、よく旦那さんのことを褒める人がいた。
やさしくて、家のことも手伝ってくれて、いつでも自分をサポートしてくれるすばらしい夫。
まだ独身だった私は、しあわせな結婚をしたんだなあと思って聞いていたが、
それから数ヶ月もしないうちに、彼らは離婚した。
「あんな完璧なダンナなんか、なんかおかしいと思ったのよねぇ」
という人もいた。
落としておけば幸せで、褒めはじめたら危ないということか。
自慢話には共感しにくいのはわかるけれど、これも文化の違いなんだろうか。
子供がいなくて寂しいでしょう、と何度か言われたことがある。
いたものが、いなくなったら寂しいだろうが、最初からいなければ寂しいとは思わない。
若い頃はバカ正直に言ったこともあったけれど、それからは曖昧に笑ってお茶を濁してきた。
子供がいる人が、子供なしの人生が考えられないように、そのまた逆もそうなのだ。
でも、10歳ぐらいの子供を見て、もしあの時子供が生まれていたらこのぐらいだな、
と想像することはある。
それは実感も感傷も伴わない、たとえば知らない国に思いを馳せるような単なる想像でしかないが、
そこに無理やり実体をかぶせてみるとすれば、自分と母を重ねるしかない。
映画の中でここぞというとき、あるいはお味噌のコマーシャルで、「おかあさーーん」と叫ぶ。
私も、誰かに「おかあさん」と呼ばれてみたい、と漠然と思ったのは、ずっと若い頃だった。
しかし、年齢を重ねて、私が母から無意識に受け継いださまざまなものに気づき、乗り越え、手放し、
闘い、そしてようやく自分の人生を手に入れた過程を思う時、
母親にならなくてよかったと胸をなでおろすのも、また正直な気持ちである。
母は今回の人生で、たまたま私の母親役をやっているだけで、母の中に小さな女の子を見つけてしまったとき、
私はこんな大役はできないと思った。
ヨットクラブでは、どのテーブルにも笑顔があふれて、
母親たちが、贈られたプレゼントや花を携えて、子供や孫に囲まれていた。
ここにいるすべての母親が、大役を引き受けているのだな。
そう思うと、拍手をおくりたい気持ちになる。
日本の母の日であった昨日、実家の母に電話をした。
家の電話も、携帯電話も、何度コールしても出なかった。
姉にメールをすると、たぶん家にいるんだけれど、動作が遅いから電話に出るのに間に合わないのよ、
ということだった。
母は、自分の母親を14の時に亡くしている。
こんなときにおかあさんがいたら、と思うことは山ほどあっただろう。
だからなのか、長生きするのが一番の子供孝行だと言ったことがあった。
母は50代で亡くなった祖母より、30年も長く生きている。
めっきり年をとってしまい、病を得てもいるけれど、私のようなめんどくさい娘を持ち
大役をかって出てくれた母に心から感謝している。
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夫の両親が会員になっているヨットクラブで、友人らと母の日のブランチのテーブルを囲むのが
ここ数年の恒例となっている。
アメリカの母の日は、母であるすべての人に感謝を送る。
つまり子供が母親だけにではなく、夫が妻に、親が子供に(その子供が親である場合)
誰かの母親である友達に、という具合に。
グリーティングカードが発達しているこの国では、ほぼすべての場合を想定したカードが売っている。
職場の同僚が、息子や娘の写真を見せてくれる。
お世辞抜きに、ものすごいハンサムだったりする。
「かっこいいねえー」
褒めると、必ず彼らは言う。
「そうなの。すごくすてきなのよ」
イケメン(死語?)息子に囲まれた同僚の写真は誇らしげで、ほほえましい。
彼らは、日本人のように身内を謙遜しない。
夫と結婚して間もないころ、日本に遊びに来たシュートメに夫の話をしたとき、
「わかるわ、彼はそういう心が温かいすばらしい人間なの」
と言ったので驚いたことがあった。
そんなふうに手放しで身内を褒める人を見たことがなかったから、とても新鮮だった。
日本社会は、内輪のことは落としておくほうが無難、という暗黙のルールで成り立っていることを
改めて認識させられたできごとでもあった。
夜間のインテリア学校に通っていた時の仲間で、よく旦那さんのことを褒める人がいた。
やさしくて、家のことも手伝ってくれて、いつでも自分をサポートしてくれるすばらしい夫。
まだ独身だった私は、しあわせな結婚をしたんだなあと思って聞いていたが、
それから数ヶ月もしないうちに、彼らは離婚した。
「あんな完璧なダンナなんか、なんかおかしいと思ったのよねぇ」
という人もいた。
落としておけば幸せで、褒めはじめたら危ないということか。
自慢話には共感しにくいのはわかるけれど、これも文化の違いなんだろうか。
子供がいなくて寂しいでしょう、と何度か言われたことがある。
いたものが、いなくなったら寂しいだろうが、最初からいなければ寂しいとは思わない。
若い頃はバカ正直に言ったこともあったけれど、それからは曖昧に笑ってお茶を濁してきた。
子供がいる人が、子供なしの人生が考えられないように、そのまた逆もそうなのだ。
でも、10歳ぐらいの子供を見て、もしあの時子供が生まれていたらこのぐらいだな、
と想像することはある。
それは実感も感傷も伴わない、たとえば知らない国に思いを馳せるような単なる想像でしかないが、
そこに無理やり実体をかぶせてみるとすれば、自分と母を重ねるしかない。
映画の中でここぞというとき、あるいはお味噌のコマーシャルで、「おかあさーーん」と叫ぶ。
私も、誰かに「おかあさん」と呼ばれてみたい、と漠然と思ったのは、ずっと若い頃だった。
しかし、年齢を重ねて、私が母から無意識に受け継いださまざまなものに気づき、乗り越え、手放し、
闘い、そしてようやく自分の人生を手に入れた過程を思う時、
母親にならなくてよかったと胸をなでおろすのも、また正直な気持ちである。
母は今回の人生で、たまたま私の母親役をやっているだけで、母の中に小さな女の子を見つけてしまったとき、
私はこんな大役はできないと思った。
ヨットクラブでは、どのテーブルにも笑顔があふれて、
母親たちが、贈られたプレゼントや花を携えて、子供や孫に囲まれていた。
ここにいるすべての母親が、大役を引き受けているのだな。
そう思うと、拍手をおくりたい気持ちになる。
日本の母の日であった昨日、実家の母に電話をした。
家の電話も、携帯電話も、何度コールしても出なかった。
姉にメールをすると、たぶん家にいるんだけれど、動作が遅いから電話に出るのに間に合わないのよ、
ということだった。
母は、自分の母親を14の時に亡くしている。
こんなときにおかあさんがいたら、と思うことは山ほどあっただろう。
だからなのか、長生きするのが一番の子供孝行だと言ったことがあった。
母は50代で亡くなった祖母より、30年も長く生きている。
めっきり年をとってしまい、病を得てもいるけれど、私のようなめんどくさい娘を持ち
大役をかって出てくれた母に心から感謝している。
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