続・知青の丘

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服部崇歌集「新しい生活様式」評(『We』15号)By斎藤秀雄

2023-04-26 12:37:58 | 短歌
一昨日、昨日からの菜種梅雨がきょうは止んで
晴れ間が見えてきた。
12時過ぎの外気温17°cだけど
エアコン暖房はオン(ナントナンジャクナ!)。

先程まで
株式会社ispace(代表取締役:袴田武史
2023年4月12日に東京証券取引所グロース市場へ上場)の
記者会見ライブをネットで観ていた。

袴田さんはじめ3人の方が出ていて
素人にもとても分かり易い説明であったと同時に
技術者として誇りと誠実味のある会見で
気持ちのいいものであった。
技術面の説明を担当していた氏家亮さんの涙は
微笑ましかった。

民間企業での月面着陸(ミッション1)と
その後に描く地球人の月での生活を見据えたものらしい。
今回のはサクセス8までで
着陸は失敗し、今後の課題は大きいものの
得られたものが多かったというものであった。

心からエールを送ります!!
いやいや投資しないと
実のある応援にはならないかな。




それはさておき、
昨日からはなんとなくなぜか
斉藤和義の歌気分になって
YouTubeで「やさしくなりたい」や
「 歌うたいのバラッド」を聴いている。 

「斉藤」と月での「新しい生活様式」つながりを
意識したわけではないのだけれど
斎藤秀雄さんに拠る
服部崇歌集「新しい生活様式」評(『We15号』)を
アップしておこうと思う。
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服部崇歌集『新しい生活様式』を読む
 偶発的必然について         斎藤 秀雄

 この歌集評を書こう、という段になって、「あとがき」の余白に私の文字で「偶発的必然について」と記されているのをみつけた。本書を何度か読むあいだに、過去の私が、そう書きたくなったのだろう。過去の私から、いまの私への手紙のようだ。本書を通読すると、このテーマ、ないしアイディアを私にもたらしたとおぼしき歌が三首ある。

わが母が母となりたるこの場所を必然として台風の過ぐ
窓の外を黒き鳥あまた飛びゆけり鳥は如何なる必然を為すか
鯛焼きの鯛のかたちに必然はありやなしやと列へと並ぶ

 たった三首、とはいえど、やはり《必然》の語は、それぞれの作品においてなにがしか異様な感触を湛えている。一首目、《必然》的なのは語り手の出生地とも、《台風》の進路のこととも読めるが、同時に双方を意味しているのだろう。語り手にとって《この場所》は《必然》であるが(語り手は《わが母》以外からは生まれ得ない……言葉遊びのようだが)、《母》にとって妊娠出産の時期・場所、パートナーは偶発的なものだろう。つまり【必然的である事柄の、条件はつねに偶発的】である。一首目は、このテーマがもっとも明白に現れている作品。二首目。《鳥》は、約六五五〇万年前の大絶滅(生物の九九%以上が死滅した)を生き延びた、恐竜の唯一の系統群であるが、生き延びたことにはおそらく、進化論的に説明可能な必然性があったのだろう。しかしこの作品が歌うのは「鳥を為す必然」ではなく、「鳥が為す必然」である。例えば他の生命にとっての環境的条件(ウィルスの運び屋となるなど)を、《鳥》は為してきたし、今後も為すだろうけれど、そうしたたぐいの《必然》が想定されているような気配はしない。というか、何事かが想定されているという気配がない。ただ不気味に《必然》という文言が、物質的に鎮座している。三首目となると、シリアスな思考の照準を離れていることが明白になる。《鯛焼き》の発祥については諸説あるが、大判焼きとは異なる、興味をそそる形状をしていれば、それは《鯛》である必然性はなかったのではないか(たぶん)。むろんこうしたことを考えても詮無いことであって、《列へと並ぶ》ことがなにより大事なことだ。
 ある事象が必然的なのか偶発的なのか、判別しかねることが問題なのではない。必然性の前提となる条件が、そもそも偶発的であるという、「底が抜けた」感覚が、問題なのだ。現在、地球に生物がいることは、必然かもしれない。アミノ酸が誕生したのだから、長い地球の歴史のうち、地表を生物が覆う時期があってもおかしくはない。が、そもそもアミノ酸が誕生すること自体が、必然的どころか、気が遠くなるほど確率の低い事象である(地球外に生命体はいない、という主張の主な理由だ)。「この宇宙」がこのようであることは、必然的かもしれない。が、「この宇宙」が存在すること自体は、偶発的なことである。こうした感触は、あるいは次のような作品にも読むことができるかもしれない。

いにしへのころより路は斑猫にしたがへばよし晴れてゐる日は
卵焼く午前七時のフライパン明日地球は消えてなくなる
欄干が崩れ落ちれば寄りかかるわたしは河を流されてゆく

 一首目。《斑猫》は、飛ぶ仕草が道案内をしているようだから「道おしえ」とも呼ばれる昆虫。ここでは偶発性へと思い切って心を傾けている。「つらい偶発性」に耐えるには、偶発性を受け入れるというのも、《いにしへ》からの教訓かもしれない。二首目。可能性としては《明日地球は消え》るかもしれない。ここではその可能性に怯えているのではなく、むしろ可能性としてはあり得るのに、ほとんどそうしたことは起こらないだろう、という軽い諦念がある。三首目。滑稽な詠みぶりだが、AすればBする、という単純な条件分岐(=必然性)に頼らなければ、偶発性に満ちたこの世は生き難いともいえるだろう。
 本歌集には、《必然》に限らず、複数回用いられるモチーフが他にもある。例えば「鼠と回し車」(《丸い輪を回してゐると知りたるやひもじきハツカネズミとわたし》《ざんばらりざんざんばらりざんばらり二十日鼠が回転をする》)には、語り手の疲弊感がにじみ出ている。この《輪》というものの偶発性が、「つらさ」として感受されている。あるいは「ビニール傘」(《言ひ訳を重ねかさねて生きてきたビニール傘はたたまずにゐる》《コンビニのビニール傘を日が透けて美しければたたまずにゆく》)には、大切な、代替不可能な固有のものではなく、大量生産の、名も無い、取り替え可能なもの(=偶発的なもの)への愛が暗示されている。
 そしてまた、地名が頻出する、というのも本歌集の特徴だろう。「本省の命」によって、服部さんは世界各地を転々とする。パリ、東京、京都。まるでロードムービーを見ているようだ。私はロードムービーが苦手である。エピソードがオムニバス的に連なりがちで、ストーリー全体の必然性を見出すのが難しいからだ。と書いてみて、服部さんが《必然》(そしてその裏面としての偶発性)というモチーフを抱えている理由が、なんとなく腑に落ちる。むろん独り合点だろうけれど。
 本歌集には、私好みの佳作が多く収められている。《透明な鹿はとほらず庭さきに白きけむりの立ちのぼる朝》《門番はひとりひとりのてのひらにクリームを塗る何も告げずに》《もう少し血をほしがつた看護師はあと少しといへり左の耳に》など。こうした作品に触れられなかったのは心残りだが、この文章を書かざるをえなかったのは、私の必然である。

(著作権上、本人了解は取ってあります)

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2 コメント

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Unknown (クリン)
2023-04-27 06:44:55
壮大な宇宙応えんをしながら、さいとうさんの「身の回り」なかんじの歌をきく・知青さまステキです✨←やさしい気もちになれる歌声ですよね🎵)
(月面着陸・・クリンも応えんしておりますが、「月面着陸機の脚が細すぎる。設計ミスじゃない?」ってうちの家族が言ってました~⤵)
返信する
Unknown (知青)
2023-04-27 16:38:20
>クリンさんへ
コメントありがとうございます。
斉藤和義の曲は、なーんか郷愁を呼ぶのか
親しみを感じてすーっと身体に入ってきます。

ソフトとハードの面から検証されるようですが
設計ミスならそうではっきりすれば
次の段階に進めていいですね。

日本の技術の高みをめざして
がんばってもらいたいです。
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