続・知青の丘

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「白玉か何ぞとひとの問ひしとき露と答へて消なましものを」~「桜の森の満開の下」

2019-04-11 18:49:31 | 俳句
白玉か何ぞとひとの問ひしとき露と答へて消なましものを (『伊勢物語』)

桜満開到来に合わせてなぜか急にふと、
坂口安吾の『桜の森の満開の下』という13篇の短編小説が収録された文庫本
(なんと、2004年当時で税別1400円!を購入していて)を引っ張りだしている。
誰かが、梶井基次郎の「桜の樹の下には」がプレテクストとしてあったとか
書いていたから購入したのかもしれないが、当時は読めていない。

「桜の森の満開の下」の結末。
簡単に結末の前置きを書くと、
満開の花の下で、おぶった女が鬼に変身したことに気付いた男は、
その鬼の首を絞めた・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、
女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。
そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も
延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、
冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。」

私はふたりとも打ち重なって熔けて「花びら」になったというふうに思ったが、
解説では、女は「花びら」に、男は「虚空」になった、とあった。

今回この小説を読んで、
掲歌の結句の願望を幻想的に叶えてあげているような結末ではないかと感じた。
そして、その結末については作者自身も恍惚感があるような。
実際、このような最期は悪くないなあと思えてしまう。
「救いようのないもの」として書かれた作品かもしないのだが、
なぜか救い?を感じてしまった。

読解力がないと言われればそうかもしれないが、
そう感じたことは仕方ない。
これは、きっといまの私の年齢的なものからくるものと思う。

安吾の「ふるさと」、と題して、その解説に、
川村湊氏が坂口の言う「文学のふるさと」にも言及していた。

そこで、やっと、竹本仰が『We』第4号の巻頭エッセイで触れていたことと繋がった。
竹本仰が書きたかったことの一つは、
坂口の、「むごたらしく、救いようのないもの」が「文学のふるさと」なのだということ。
「生きることのぎりぎりの『必要』によって生み出されるものであって」、
ことば遊びではないんだと。

「夜長姫と耳男」では、芸術家の魂とはこんなにも激しく生を貫くものかと圧倒された。
芥川龍之介の「地獄変」の絵師の話に通じるような~。

「梟雄」と「道鏡」も面白かった。
というか、斎藤道三といい、道鏡といい、
色んな<こと>・<もの>から、
死からさえも解放されたような晩年については、羨ましくもあった。
ハマりそうな作品たち~膨大な数の作品。








コメント    この記事についてブログを書く
« 「春蘭や名を呼び姿もとめた... | トップ | 今を盛りの狭庭の花たち »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

俳句」カテゴリの最新記事