四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

永遠不滅の生き方を提供!

美の巨人たち 上村 松篁(うえむら しょうこう)「丹頂」

2010年01月24日 18時00分52秒 | 美術・建築・工芸
東京国立博物館の日本画の大部屋には上村松園の絵が飾られている。
髪を振り乱した和服の女性の絵である。題は「焔(ほむら)」という、10代後半に始めて見たが、あまりのできばえに目をこらして見続けたことがある。
16の頃から美術官に入り浸っていた、油絵も描いていたから尚更である。
この松園が上村松篁の母親である。

松篁も後ほど見るようになった。意地の悪い渡辺二郎のような顔をした感じであるが、松篁は品がある。写真で見る限り子どもの頃より目線がきつい。それくらいの目でないと物ものは見えて来ないであろう。

伊東若冲のように対象をじっくり見る制作態度は写実の絵を描く基本である。
ものは見つめれば見つめるほど段々にその形も質も変わってくる。いままで見えていなかったものが見えてくるものである。常人はものがあると思ってみている。つまりあると思っているから何も見ていない。町を通り過ぎているとき建物や店舗が目に付くが、いざその建物や店舗がなくなってしまうと、あれっ、ここにあった建物は何であったろうか? と、考えるものである。

われわれの日常はそこにものがあると信じているだけであるのかもしれない。
だが、画家はそのものを確実に捉えていく。二流の画家はやはりわれわれとおなじような意識でものを見つめているが、透徹した名人は慥かにそのものの存在を見抜くようである。

上村松篁もまさにそういった画家であった。いまの画家たちは辛抱がない。ものがあるかないか自分で確かめることができない。ただ何となくである。それでは見るものに感動が伝わるわけはない。

美の巨人たちでは上村松篁の「丹頂」が出てきた。
そして上村松篁が手本としたのは大徳寺の牧谿の「絹本墨画淡彩猿鶴図」である。
これは神の使いとも言われ天地の霊気を一心に受けた鶴と猿と仏の三対の絵となっている。

上村松園は息子の松篁に手ほどきはしなかったという。ただ、絵を見ては「これは品がない。これは品がある。」と言うだけだったという。まさに手ほどきはこれで十分である。わたしもこれは良くない、これはいい」と言うだけである。

「青は重要な色で、青色が良ければ心がよい証拠だ。」とも私はいう。

牧谿の絵は、世にいう神の宿るような絵である。このような作品は今日では生まれがたいものである。
世界中の財力を費やしても生まれない。今の時代は価値あるものに投資する眼力が衰えている時代である。

実に巨大建築ばかりが目立つが、ちょうどローマ時代のいかれた皇帝たちが登場した時代に似通っている。実際はそれよりも劣悪である。便利さを優先するあまりに、碌でもない企業には何兆円も税金を使う時代である。

観光立国を目指すなら、世に埋もれた逸材がまだまだいるのだから、彼らに投資する方がよいのである。

せめてわれわれは過去の逸材を拝む気持ちで見るだけである。

美の巨人たち

絹本墨画淡彩猿鶴図

絹本墨画淡彩猿鶴図〈牧谿筆/〉主名称: 絹本墨画淡彩猿鶴図〈牧谿筆/〉
指定番号: 12
枝番: 02
指定年月日: 1951.06.09(昭和26.06.09)
国宝重文区分: 国宝
部門・種別: 絵画
ト書: 「天山」の鑑蔵印がある
員数: 3幅
時代区分: 南宋
年代:
検索年代:
解説文: 南宋時代の作品。


絹本墨画淡彩猿鶴図


文正(ブンセイ)筆 明時代
双幅(右幅) 縦181.3 横85.2
相国寺蔵

こちらは仏の使いと言われる作品である。

鳴鶴図右

鳴鶴図左

松伯美術館
子供が生まれてくる。赤ん坊が生まれてくる。
その赤ん坊はすでに何をやるかどういう人生をたどるかは、はたして決まっているのであろうか?

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。