四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

永遠不滅の生き方を提供!

貧乏暇なしというが、わたしは暇を作るために貧乏をしているのである

2009年11月03日 23時59分00秒 | 行住坐臥
一番自分自身と関わっているのは時間である。

人間一人に必要な空間は、立って半畳寝て一畳という禅宗の教えがある。
それだけの空間はさまざまなところで見つけられる。
マクドナルドのコーヒー無料の日に行けば、コーヒーのお代わりが自由で、おまけに24hやっている所なら、ずうっと1カ月過ごすことも可能である。

その点、時間は限られている。もし他人に雇われていれば時間は自分の時間ではなくなる。時間の多くは他人のために消費しなければならない。それがすべて無駄になるわけがないが、自分のための時間が必要な人間にとってはかなりの無駄になる。

たとえば創作家は自分の時間を持つことが必要である。
作品を作るために自分の時間が無限に必要となる。
傑作はいつできるとも限らない。思想がいつ生まれるとも限らない。
寝ている間にインスピレーションが来ないとも限らない。

とにかく束縛から逃れるために、多くの創作家たちは暇と引き換えに貧乏を余儀なくされている。

しかし、創作家でない人々も自分の時間は必要である。
今、企業などでは14時間拘束も珍しくないが、通勤に2時間近くかかる人は、残りの時間は8時間しかない。食事・風呂・睡眠だけでも足りない。しかも、自宅に帰って仕事の残りや明日の準備をやるとなると、睡眠も碌碌取れない。

そういう生活を繰り返しているひとは少なくはない。
バブルの頃は24時間働けますかという、アホな健康ドリンクのコマーシャルがあったが、若い女の子たちも1本1000円もするドリンクを飲みながら24時間に挑戦していた。

どう考えてもそんな無茶苦茶なことをやっていて、身体が持つはずはない。
多くの人が過労死した。そして心筋梗塞やクモ膜出血で身体が動かない人々も多く出した。

主婦たちはこどもの教育のために、塾へ送り、体力作りにフィットネスクラブやバレーボールにいそしんだ。結果、奥さんだけが今日でも元気で年金を受け取り、おしいものを食べ歩き、長生きしている。そして子供たちは、30代自殺が増え、鬱状態の中年が増え続けている。

結局、個人が自分の時間を自分のためにではなく、周りのために使いすぎた結果である。
時間の基本は自分のためにあり、その3分の1は社会のために使うとしても、それ以上を使うとすれば、異変の方が大きくなってくる。

だてに、一日8時間の労働を定めたのではない。
綿密に計算された科学的な根拠があってのことである。

この労働を2倍にするだけで二酸化炭素が2倍の値を占める。
夜間労働はさらに環境を悪化させる。

夜は休むために作られていることは身体の機能が証明してくれる。

煙草が健康の害なら、労働はさらに健康を害する。
むかしの労働者は時間にたいしてはうるさかった。
残業代が出ない労働などはありえなかった。

少なくとも働くものの権利である。

しかし、創作をする者には何の権利もない。
24時間自分のために使うのである。
病気しても飢えても自己責任である。

他人の責任が関与する場合はほとんどない。
悪いのは自分である。
そういう意味では悲しい商売である。

最近、知り合いの工芸家から連絡が来なくなった。
ひょっとして今頃ふたりしてミイラになっているかもしれない。
あるいは頼りのないわたしを見放したのかもしれない。
わたしが口先だけの人間だと気づいて嫌になったのだろうと思っている。

歯医者には通うことができるが、口の悪いのは脳外科に行っても治らないみたいだ。


仏典の言葉にもっともおいしいもの!

2009年11月03日 23時16分00秒 | 行住坐臥
もともとわたしは親に虐待されて育ち、汚い池の水を飲まされて溺れかけている時、誰かに救ってもらい、永遠の蓄膿症となったり、高いところから転落し、頭を売っているんで、ほとんど記憶力がない。

それでも仏典のどこかに、世の中で一番おしいものとはと弟子がお釈迦さまに問うたところ、『それは真理である』と言われた。

頭の悪い私もたしかにそうだろうと今も信じてやまない。

どんなにおいしいものも、たとえ次郎の握り寿司を出されても、そこに真理があれば真理に手を出すであろう。

飢餓の状態にあってさえ、真理は尊いものである。

どうせ命は頂きものである。
よく人間の尊厳というが、人間から真理を求める気持ちがなければ別に都お得もないような気もするが、それでもやはり人間の命は尊い。

いや、そればかりか生きるものは昆虫であれ、野の草であれ、観察するたびに尊くいとおしくなってくる。それらのものでも拝まなければならない気持ちにさせられる。

誠に命と言うのはありがたいもので、私が読んだ宗教書の中で必ず書かれていることは命を大事にし、殺すなかれという言葉がが共通してでてくることである。

記憶力の悪い私でもそれらは覚えることができる言葉である。

いろんな発明品が人々の心の中に入り込み、その分心をがんじがらめに縛り付け、人と人が結びつき助け合う精神の触手を遮っているように思えてならない。

みんなが困る社会になって、ますます差別化が進むと、自分たちが安心だと思っている山に住む富裕層の人々も水位が増し、どんどん立つところがなくって来ることを知るであろう。

誰一人として一人では生きていけない。
身の回りのもので、他人の力なくしてそれがあるというもの以外はないであろう。

つまり自分が作りえたもので暮らすことなど何一つできない。
そして根底には米一粒でさえも人間は作りえないのである。

とにかく世界は不思議である。
子供のころに見た、池の周りの不思議や水に住む生き物たちの不思議がますます不思議に思えてくる。

世界に新しい奇跡は必要はなく、いまある不思議はいつまでも不思議であるに違いない。

リンドバーグの大西洋横断の映画を昔見たことがある。
たった一人の初飛行の太平洋横断である。最初に試みる冒険もやはり孤独である。
そこに一匹のハエが飛んでくるが、単独飛行の間にそのハエとリンドバーグは会話を交わす。そして段々に心を交わすようになる。そのハエが彼の孤独を癒し、遂に太平洋横断に成功する。

一体このハエとは何であったのか?

このハエとは仏典でいうところの、もっともおいしいものであったかも知れない。


人生辛抱あるのみ 達磨・鑑真の瞑想法

2009年11月03日 22時28分56秒 | 行住坐臥
急がば転ぶ。

達磨も転ぶ。
ダルマ鋲もころころ転ぶ?


深呼吸の効果。

ヨガ的空腹の克服。

断食するイスラム教徒は賢い。

インド人はもともと賢い民族である。
おそるべき0の発見!

実は達磨もインド人である。
鑑真よりもはるかに超越した高僧である。
壁面9年である。
瞑想と座禅。
禅宗の祖。

鑑真ではなく、達磨が日本にきて教えを説いた場合、果たして日本はどう変われたか?

何事も辛抱である。
撃たれても刺されても引っ張られても達磨は動かず動じず、面壁9年である。

わたしも打たれ強くなった。
ヨガの呼吸法で24時間無食に耐えられる。

錬丹術(煉丹術、れんたんじゅつ)を究め、仙人になるまであと50年の辛抱である。

悪に染まるな!
何のことやら?



人生は過酷である  また楽しからずや

2009年11月03日 21時52分13秒 | 生存権・労働問題
人生は過酷である。

このことを感じるのは必ずしも貧しい人ばかりではない。
富を手中にし、権力を手中にしている人間においても、そう感じるのである。

王侯貴族でさえ、嫉みや暗殺におびえ、財産を略ざつされないか、地位を引きずり降ろされないかとさまざまに悶々とする一日を送る。

貧者は貧者で今日明日の食べ物に心配しなければならない。

生まれてから死ぬまで、過酷な人生が続く場合がある。
もういい加減にしてもらいたいと思ってもまた、次の日からは過酷な日々が待っている。

探検家は一つの探検が終わったら、次の探検に挑戦する。一つの探検は次の探検のための訓練のようなものである。

オリンピックで金メダルを取った後はさらなる過酷な日々が待っている。
メダルさえ獲らなければそれほど苦悩しなくとも済んだが、頂点を極めたがために、さらなる頂点と言う幻に突き動かされなければならない。

実際、溜息なしに生きて行くことは困難である。
いまもため息がでる。


創作 永遠のベアトリーチェ堀越桃子と及川精彩

2009年11月03日 11時58分10秒 | 日毎起こること
最近ダンテの『神曲』を開いて読むことがある。
何と言っても、ダンテにとってのベアトリーチェは私の頭にもこびり付いている。
10代後半で『神曲』を3日かけて読み、永遠の女性というとベアトリ―チェということに烙印されてしまった。

それ以降、私は永遠のベアトリーチェを探し求めて生きて来た。

そして私はある名前に行きあたった『堀越桃子』そしてついでに堀越桃子の相手として『及川精彩』という若き宗教家の名前に行きあたった。

『及川精彩』は宗教的な物語だが、オウム真理狂の生成過程と少し似通ったところがあった。当時発表は控えて温存してある。かなり熟成してロマネコンティと対となるような高級ワインとして蔵出しする予定である。

永遠の女性が絶世の美人でないはずはないが、かといって表面的な肌の意味ではない。あくまでも人間性が焔のごとく出てくるのである。

ダンテのベアトリチェーは他人に嫁ぎ、若くして夭逝する。ダンテも別の女性とえ結婚するが、永遠の女性を描き続ける時にベアトリーチェが常に存在しつけなければならない。まるで火の鳥のように地獄・煉獄・天国とダンテを導く存在なのである。

別の話
キム・ヨナはスケート界の女王である。銀盤上の姿はどこをとっても完全なほどで、すばらしく美しく感じる。

キム・ソナはやはり女優としては極めて魅力的な演技をしてくれる。「私の名前はキム・サムソン」では名演技ながら、体重を10kg近く増やしての出演である。体重を元へ戻すと別人のような美人が出現する。心臓が解けてしまうような吸引力を感じてしまった。日本のいわゆる美人女優にはとてもマネの出来ない美しさである。浅田真央がキム・ヨナに及ばない以上の径庭の差がある。

ところで我が堀越桃子大明神はさらに精神の美が付け加わっているため、前人未踏の世界に住む美しさが備わっているのである。


神曲 地獄篇 (河出文庫 タ 2-1)
ダンテ 河出書房新社 売り上げランキング: 5619
おすすめ度の平均: 5.0
5 標準的な口語訳にして名訳5 通読できる訳4 平川氏の訳注には学識の深みが感じられます。5 イスラム文学のダンテ『神曲』への影響5 日本人にとっての「神曲」とは?


神曲 煉獄篇 (河出文庫 タ 2-2)
ダンテ 河出書房新社 売り上げランキング: 5245
おすすめ度の平均: 5.0
5 「煉獄」という無理筋の場所が面白い5 天国はまだかあああああ


神曲 天国篇 (河出文庫 タ 2-3)
ダンテ 河出書房新社 売り上げランキング: 4366
おすすめ度の平均: 5.0
5 ユニークな神学的議論が面白い5 天国よいとこ一度はおいで?



今日は文化の日である 唐招提寺のピーヒャラ ピーヒャラ

2009年11月03日 11時18分33秒 | 行住坐臥
文化の日、この日ほど文化の香りのしない一日はない

唐招提寺のコンサートがテレ朝でやっている。

最近お寺でコンサートが流行りである。

なぜ、コンサートなのかはよく分からない。
コンサートをやれば人が来てお布施が貰えるからであろうか?

鑑真和尚を招来するために建立された寺であるから、唐招提寺(唐から招聘する菩提寺という意味であろう:調べると別の意味である)。当時としては国内の仏教とは別枠に考えられていた。

先進国唐は当時の我が国としてはなんでも受け入れらる戦後のアメリカ以上のものがあった。

日本でも仏教が盛んとなり、本場の高僧が日本に来るのを望んだであろう。
想像だが、明治の初期に海外から外人教師を招いた時には待遇が違っていた。
いくらんでも危険を冒して海を渡るのにただ単に無給で来るとは思えない。

たとえば唐招提寺の教えはどこにあるのか?
律宗というのがそうであるらしいが、我が国ではなじめず、いつのまにか雲散霧消してしまった。いまも継承している寺院があるだろうが、私は知らない。

仏教の中枢は教えになる。当たり前のことである。仏の教えを仏教というのであるから。

しかし、唐招提寺に教えを請いにいくものは案外と少ないのではないか?
お寺建築の美や鑑真和尚の座像ならびに東山魁夷の襖絵などが目当てである。

寺と美術品と建築というのは世界的に同じようである。
教えを求めてサンピエトロ寺院へ行く人はやはり少ない。

しかもそれにも足りずにコンサートというのは本来なじみのないものである。

キリスト教寺院の中ではミサに合わせて合唱なども行うがそれらはキリスト教における宗教音楽であり、一体となっている。

まぜこぜの音楽をやるわけではない。
クイーンやマイケルジャクソンが出て来てムーンウォーカーを披露してくれるわけではない。

しかし、場違いのことが平然と行われるのが日本である。

阿修羅のお寺興福寺は維摩経という教えを継承している。
そして興福寺で行われるのは薪能である。
今年の7月興福寺主催の薪能が東京でも行われた。
その程度のことは実際の日本の文化と絡んでいるが、唐招提寺様のやることはやはり不可解である。

歴史的に詳しい知識がないのでこの辺にするが、これだけ有名なお寺なのであるから、あまり品のないことを行ってはいないが、だんだん時流に流されてきていることを感じないではいられない。

そう言えば東京国立博物館で2005年に唐招提寺展が行われていて、高橋睦郎の俳句の講演をやっていた時に、私は本番の時に住職の席を陣取って座ってしまった。そのせいか貴賓席が一席足らずに立ち続けていたTBSの社員がいた。


金堂平成大修理記念
唐招提寺展 国宝 鑑真和上像と盧舎那仏