四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

永遠不滅の生き方を提供!

柏崎刈羽根原発は東京電力 柏崎刈羽地域は東北電力が供給

2007年07月18日 18時17分07秒 | 事件・事故・自殺
世界一の規模を持つという原子力発電所が日本にある。それが柏崎刈羽原子力発電所である。所有は東京電力である。つまり関東域の電気を供給するために信越地方に設置しているのであり、現地には供給しない。

この柏崎刈羽原発に北朝鮮がミサイル攻撃すれば北朝鮮も滅ぶほどの規模を持った原子力発電所である。もちろん日本の半分も無くなってしまう。

これほど巨大な発電所はチェルノブイリでもスリーマリルでも到底及ばないものである。原発事故が起こるとすれば次は日本であると言われてきたが、実に危険な状況になってきた。何せ震源地が原発に近く、地下にも亀裂が走っていると言われている。

今年の夏は猛暑であるとされている。梅雨があければすぐさま猛暑がやってくるであろう。

柏崎刈羽は820万kwの発電力がある。これだけの電力がこの夏不足する。間違いなく都市部の電力が著しく不足し、エアコンは使えない状態になる。コンピュータも止めなければならないであろう。

そうすると高層ビルに陣取っている一流企業はその機能を果たせなくなる。TVも時間を制限して放映するであろう。

印刷機も止まり、本屋雑誌も印刷できない。

病院の医療機器も止まるであろう。

ああ熱い熱い熱い夏だ。

そして大衆が電気を求めて原子力発電所を稼働すればチャイナシンドロームである。またしても中国か?というようなお門違いの歎きが聞こえてきそうである。


人間は孤独である。それは多くの偉人が証明している。そして弱いものである。

2007年07月18日 07時05分44秒 | 行住坐臥
人間とは極めて正義に対しては弱い存在である。生活のためには正義から遠ざかるのが人間である。

そういう中で人間が悪事と戦う少数の人間がいるということもある。

先達ってのNHKBSの「ブックレビュー」で岩波文庫の特集をやっていた。
途中からしか見なかったが、岩波文庫のロングセラー第一は『ソクラテスの弁明』であった。

世の中には、少なからず正義について考えようとする人々がいるという証であろうと考えられた。

人間は弱いものであり、イエスの弟子でさえ、三度鶏が鳴いてもイエスを知らないというように、自分の保身に回ろうとする。

人間は卑怯である。それは毎日の自己の行動からもっともよく知ることができる。

人間は何も知らないが知っていると考える動物である。知性ある動物であるかどうかさえはっきりしない。

だから、学ぶということが重要になってくる。正しいことが解らないのに、正しいことをやっているという証明をすることは困難であるが、すべての人間は悪事を行っている場合でもそれが正しいと考えているかというとそうではない。

この行いは間違っていると考えている場合でも悪事を行うのである。

それは生きることを悪事に染まるよりも今の命を生き延びさせようとするところから生じてくる。

正しいことが人間にとって大事なのか、それともこの命が正しいことよりも大事なのかという問題が常に生じるようになっている。

欲望と物質が相互に絡み合って、今日の何でも手にいる時代を作ったが、もっとも不足しているのが、いかに生きるかの問題である。

もはや、いかに生きるかという重要な問題は学校では教えなくなっている。もっとも学校で教える問題としては不適切になっている。

子どもの時から選択肢には様々なものがある。20世紀からスポーツは職業として成り立つようになった。子どもの頃から親が特訓をしてスポーツ選手にさせようとする時代でもある。

スポーツがどのように人間を育てるのかということは、今でさえなおざりになっている。スター選手だけに目が行ってしまうが、極めて不幸な人生を送る選手たちも少なくはない。そのために人生を台無しにしたと考える人間も少なくはない。

スポーツは新しい形式のビジネスであり、今ではビジネス理論として経済学者たちまでが、いかに利益を上げるかという問題を必死に考えている。

近代経済のゼロサムゲームが成立するのである。スポーツは第一に利潤を追求する場所である。それに乗せられる人間は大多数を占める。

マスコミとスポーツは切り離すことができないほど利害関係で結びついている。

つまりスポーツには勝敗はあっても、全くないものは善悪の概念である。もしあるとしても負けることが悪で、勝つことが善であるという、戦争の原理だけで成り立っている。

社会そのものが勝敗を決めるだけのゲーム社会になっている。

ゲーム理論には善悪の概念は存在しない。善悪を計量することは困難であるからだ。

ところが人間に必要なのは善悪の概念に他ならない。もし善悪がなければ福祉というものが何であるかをしることができないであろう。

ここでいう福祉とは本来の幸福の意味である。

人間とは愚かな存在で俗な存在である。また、欲望に歯止めをきかせることが困難であり、自己の欲望のためには何でもやるような人間でもある。

しかし、このような欲望をのさばらせるとどうなるか位は、人間には解るはずである。もちろんその人間のレベルがどのようなものであるかということが問題となってくる。

犯罪者や社会ルールを無視する人間に善悪が解るはずがないと考えるのは性急である。もちろん解らない人間の方が多いのだが、解っているが、ある行動の束縛には耐え難く、それが社会ルールを逸脱するということがある。

やっては行けないと言われていることが、あまりに厳しいことを強いる場合には返って社会ルールは無視される場合がでてくるであろう。

そして、そこにそもそも善悪の概念など無かった状態のところに善悪の概念を植え付けることがしばしば起こる。

そうすることで人間は些細なところで対立せざるを得なくなる。

善と悪の見解はそれほど単純ではない。それを極めることは非常に困難である。とくに政治的な事柄や、仮想敵国を選定する場合には、慎重の上にも慎重でなければならない。

人間の生命は人間が作ることができない。どのような微生物も人間が作ることができないだけに、生命は神秘であり続け、本来貴重なものである。

そのような貴重なものを本当に生かせるために「何をなすべきか」と言う問題を学問期間の中で考えるようにすることが本当は大事である。

何を作るかなどはそれほど問題ではない。必要程度のものは私でも特別の知識や技術がなくとも作れる。

必要以上のものを作り出すと、それにとらわれて自分の命を奪われるというようなことになる。家族の命も危険にするであろう。

人間は寂しいものである、その寂しさを味わえないような人間はすぐに他人を求める。そしてついに寂しさというものが何であるかと言うことさえ解らなくなる。

寂しさは「美の本願なり」とある詩人は言い残しているが、寂しさの解らない人間に私も用はない。

『ソクラテスの弁明』は短編である。極めて薄い短編である。この書物がロングセラー一位を獲得するには訳があるだろう。人間は愚かで弱く、欲に溺れがちで、正しさを見失う存在である。

そういう愚かな人間がすこしでもましになるにはと、この本を参考にするのである。少なくとも私はそうである。正しくあるには個人でなければならない。そして個人であるためには孤独でなければならない。寂しさをかみしめなければならない。

そしてこの寂しさと孤独は何よりの寶になってくるものである。一人でなければ本当にしんみりと正しいことが考えられなくなる。



相変わらず碌でもないリゲインのコマーシャル

2007年07月18日 00時43分39秒 | 未分類
こういうCMが詐欺に値しないのか検証してみてはどうだろうか。

大正製薬のリポビタンは閨閥を作ってブロックしているという。

こういうドリンクがメタボリック症候群を作り、糖尿病の予備軍を作っている。

今の20代30代の人生50年説はまんざら嘘ではなさそうである。

団塊の人たちも70代前半で死ぬというのにも根拠がありそうである。