四季の書斎 世界は破滅に向かっている。

永遠不滅の生き方を提供!

見ることと見られていること、

2007年06月24日 21時32分28秒 | 行住坐臥
見るものがいる、と感じるときがある。芸の道では師匠の目は怖い。いかなるものの上にもボスがいる。一匹オオカミになろうとも、ボスになろうとも、やはり見られていると感じるだろう。たしかに見られている。俺の目の黒いうちではなく、永遠に見つめているものの何かが!


ぼけぼけの電線ショートでした 宇都宮線

2007年06月24日 06時29分44秒 | 美術・建築・工芸
止めては行けない区間に電車を止めた運転手

何が狂っているか 栃木から埼玉へ、そして東京へ。昔、宇都宮線は東北線と言っていた。今では東北線と宇都宮線は別のものである。栃木も合併で土地の名前が変わってしまったから、今ではなんと言うかしらない。何とか還元水ではなかった。黒磯までが宇都宮線だったはずだ。今でも黒磯があるのかどうかは知らない。

電気
電磁波
デジタル

スポーツ
賭博
TV

食い物


女とは遊ぶものと相場は決まっている。昔はそうであったらしい。

飲む、吸う、買う、打つ。これは女と遊ぶときの遊び方らしい。

話は、変わっていく。

自衛隊への納入業者、石川播磨重工業 潜水艦を製造している会社
NEC 富士通 光ケーブルの軍事輸出でひともめした。

お仕置きに富士通が国から仕事を減らされたとさ。富士電機の佐藤さんは超美人であった。富士電機は聞いたことがない会社だったので、中小企業のお嬢さんと思っていた。沢口靖子より色が白くて賢くて、弱々しかった。お日様が照ると焼けて無くなりそうな位い、可愛かった。あの時積極的に付き合っていれば良かったと思う。どうも美人とスタイルのいい女を好きになることがないので困ってしまう。

富士通とNECの軍事スキャンダルはこちらが詳しい。

ハイテク通信が軍事化される日

中央経済社

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こちらも参考になる、電線もケーブルも現代によって重要であると同時に危険である。

電電民営化過程の研究

エルコ

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料理研究家は素人が多い 芸術家に学べ 料理には芸術家ではないことも知るべきである

2007年06月24日 06時23分11秒 | 美術・建築・工芸
アホな料理人が鉄人などと称して世の中に出しゃばりだしてから、料理屋の料理は不味くなった。料理人も哲人になれるほど学があると良いが、魯山人でさえ、料理人は芸術家などとは言っていない。もっとも、本歌取りの名人が独自性をもって世の中にでたとは思えないが、それでも新しい料理に息を吹き付けた。あまり臭い息では料理もたまったものではない。

トゥールダルジャンにわさびと醤油をもって行った男である。相手を認めないで我を通すやり方は小林秀雄に似ている。フランス料理店にカップ麺を持っていく日本人ツアー客とあまり変わらない。郷に入っては郷に従えとは相手への礼儀である。中華料理店へ行って寿司をくれとは誰も言わない。高級寿司屋へ行ってこのウスターソースで寿司を食べるということと同じで無礼である。トゥールダルジャンも今では★★★から★に転落している。さもありなん、独自の料理法を客の要求に合わせていればいつか転落するものである。

ついに魯山人は尾形乾山の足下にも及ばなかった。芸術に似せることはできたが、芸術を創り出すだけの良き精神性を持つことはなかった。他の職人に比べればたしかに巧いが、小林秀雄の評論家的なところがある。

現行の料理研究家というのは大抵がハッタリ屋である。よくもまあ、同じような料理の本を出すものである。本当の料理人は怒るであろう。しかし、本当の料理人はどこへ行ったのであろうか。昔の文士たちも今ではいないが、谷崎潤一郎が絶賛した辻嘉一はラーメンなんどは食べたこともないというひとである。志賀直哉は辻嘉一のたこの卵巣を食べたことを文にしている。

本物はあれもこれもとやる人間ではない。

世間ではウナギが食卓に並ばなくなると心配顔だが、我が家の食卓にウナギなど並んだ試しがないから、相変わらずアオダイショウの蒲焼きで我慢する。香港育ちの女房の大好物である。ちなみに女房の旧姓はアグネス・チンと言ったかな。


義務教育を改革せよ

2007年06月24日 05時19分32秒 | 美術・建築・工芸
税金を無駄に使う教育費。医療費や軍事費よりもはるかに無駄金である。

勉強もしない生徒に対して、小学校から中学・高校と順次ところてん方式で上の教育機関に挙げていくのは狂気の沙汰である。

人間は国が定めた教育にすべての人間が適応できるわけではない。

ある子どもは手仕事にすばらしい能力を発揮する。

解らないことがある内は進級させるべきではないし、解らないことに対しては何度でも教える必要がある。

バカな教師は一度言って解らないと生徒をバカ扱いするが、バカなのは教師の方である。

解らせるということは、繰り返しの連続である。スポーツでも上達するためには必要以上に繰り返し、それが修得できて次の段階に行く。

義務教育に足りないのはほったらかしの精神である。

小学校の教諭の顔を思い出しただけでも胸くそが悪くなる。
その教師は金持ちを優遇する依怙贔屓婆ばあであったたが、選挙の時になると自民党に入れるようにと公務員の選挙違反を平気でやっていた女である。村田とか言ったが、すでに地獄に堕ちているであろう。

教育は教える方にとっても、教えられる方にとっても不幸である。
教える方は教えるほどの資格が無く、教わる方も理解するだけの能力に欠けている。

義務教育は受ける義務だけではなく、能動的に学習を修得する義務がある。受けるだけでは猫でも犬でも受けるであろうし、できない人間と比べれば、犬・猫・猿が特別劣るわけではない。たぶん出来の悪い人間はボノボや愛ちゃんにも劣るであろう。愛ちゃんは卓球選手ではなく、確かチンパンジーだった。

最近の猿は進化している。その内猿の惑星を作るだけの智力を持ちだしている。我が町にも野猿が出没する。一度朝早く、山女魚釣りに行って突如として出くわしたことがある。お互いにらめっこしたが、中々街にいる自動車を運転する女たちよりも知的であった。私は安心した。猿が少なくともまじめに生きていると! 私と猿はその自然の智力を比べ合いながら、お互い牽制していると、猿は一度ぺこっとお辞儀した。猿が礼儀正しかったので、試しに山女魚を7匹やろうかというと、すごく喜んでいた。しかし、朝に3匹で夜に4匹ならどうかというと、少し怒った顔をした。では、朝に4匹、夜に3匹ではどうかというと、いとも朗らかな顔つきになり、にっこりとした。そして4匹呉れてやると礼儀正しくお礼をして別れて行った。しかし、夜に猿に逢うことはなかった。これが人間の知恵である。これは義務教育の漢文で教わったことを私が行ったまでのことである。少なくとも、義務教育は日常の生活に役に立つものである。