ポンコツPAK-ブログサイド-

ミリオタ、エルンストによるブログです。
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奇兵隊の影に隠れた勇戦

2010-10-03 00:03:01 | 幕末


大河ドラマなどではほとんど取り上げられない第二次長州征伐の側面を描いてみた。
高杉晋作率いる奇兵隊は主に小倉口で戦っていたため、そっちばかりがクローズアップされております。「四境戦争」というくらいですから、実際は戦線は四か所ありました。
その中でも幕軍が岩国を目指した芸州口の最初の戦闘を取り上げて描いてみました。

慶応二年六月十四日、芸州口における幕府軍先鋒、彦根藩の武士とそれを迎え撃った長州軍諸隊のうち、維新団の兵士です。

芸防境界の小瀬川を渡ろうとした彦根藩の軍勢は山間部に陣取っていた長州諸隊からの猛射撃にあい、高田藩とともに敗走しました。
芸州口は結局、幕府歩兵隊と紀州藩兵が穴を埋める羽目になりました。

維新団は被差別身分から徴収された銃隊で、遊撃隊に属していました。藩当局からも白い目でみられていましたが、実戦では他隊と同じ水準の装備を誇り、活躍しました。
銃は藩がグラバー商会から購入した前装式のエンフィールドP1861短ライフル銃、装具の詳細は不明ですが、
イギリス軍の1859年型胴乱に56年型雷管入、スネークバックルベルトにヤタガン銃剣を装備させてみました。銃は南北戦争時の南軍の中古品なので、装具も「CS」南軍のでも良かったかも。
ちなみに、このイギリス軍の装具も慢性的物資不足だった南軍の一部で使われています。考証的にはセーフかと。

また軍装は上から下まで黒ずくめだったようです。「一、衣装黒、筒袖黒、立付共紐の事。一、笠惣黒塗りの事。」笠の詳細もわからないので、とりあえず韮山笠にしました。
黒く塗った菅笠でも良かったかも。

飾りも許されず全身黒服のみという服装差別が、皮肉にも彼らの軍装を後世に記録させることとなりました。
彼らはこの戦闘で実力を示し、それまでの差別的な待遇から一転、一目おかれる存在になったといいます。
金色の飾りも禁止されてたみたいですが、このスネークバックルは実用品だぞ。飾りじゃない!だからおk。

翌年、視認性の低さもあってか他の長州諸隊の軍装もほぼ黒色に統一されています。


いっぽうの彦根藩は戦国以来の伝統の赤備えをもって前線へ臨みました。その結果、前装施条銃で固められた長州諸隊の攻撃に大損害をこうむり、鎧かぶとを棄てて後退しました。
火器の装備は長州側の鹵獲品の記録に残っていますが、火縄式だった十匁筒を雷管式に改造したものや、球形弾を布にくるんで押し込む旧型ライフルのヤクトビュクス銃などで、その数も少なかったといわれています。でも大砲はアメリカ製ボートホウィッツルがあったそうな。

絵は管打ち十匁筒を描いてみました。現存する管打ち和筒は小筒ばかりなので躊躇しました。長州軍のエンフィールド銃とは火力の差が大きいですね…。
兜は日根野頭形、胴は仏胴というスタンダードな当世具足にしてみました。前立ては井伊家陪臣を現わす銀の天衝です(家臣は金色の天衝、藩主は金の脇立てになる)。
背負い旗は赤地に金で名前が書いてあり、彦根藩士共通っぽい感じのものです。(天衝みたいに家臣と陪臣で変化があるのかは分からず)

芸州口はほぼ戦役の最後まで戦闘が続き、彦根藩も緒戦の雪辱を果たさんと奮戦しましたが、結局、休戦が決まり、幕府軍は撤退しました。

実は幕府陸軍関連の資料もあるので、そっちもまとめてみたいものでござる。


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2 コメント

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初コメ。 ()
2010-11-08 19:04:05
お初です。
イラスト拝見しました。
実際両軍の軍装を並べて見比べると不思議な感じがします。。。
私は旧日本軍の軍装品を収集していますが幕末の軍装はほとんど知識が無いので興味深いです。

しかし彦根藩士の軍装にはビックリです。いくら有名な井伊の赤備えでも甲冑姿では、まるで260余年前の関ヶ原の戦いとほぼ変化無し。
銃もマッチロックをパーカッションに改造した物とは・・・・これでは代々徳川家先鋒を務めてきた井伊家でも被差別出身だがエンフィールドで武装した士気の高い軽歩兵には勝てなかったのも頷けます。

去年農家の納屋からヤタガン式銃剣を発見しました。鞘は先がボロボロでしたが刀身はやや錆があっただけで当時の姿を留めていました。実物の長大さに銃剣というよりもサーベル!?という印象が強かったです。また知り合いのエンフィールド(実物無可動)に着剣するとまるで槍でした。残念ながら銃刀法に引っかかるので泣く泣く切断し収集家の所にお嫁に行きました。。。
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コメントありがとうございます。 (Ernest)
2010-11-08 22:32:25
旭さま、コメントありがとうございます。
私もなんですが、半洋装と和甲冑が混在する不思議な時代です…。しかも井伊家ではその大部分が槍などの白兵戦で戦うつもりだったようです…。保守もここまでくると恐ろしい…。
井伊家の軍勢を始め、一部の藩の兵士には防護のために甲冑や鎖帷子などの小具足を着て挑むことがあったようですが、ミニエ弾が被弾すると弾丸が変形して喰いこみ、傷を悪化させてしまったようです。
彼らの敗走後には「何ぶん甲・鎧夥しきこと数を知らず」と長州側に記録されています。役に立たずむしろ邪魔とわかり、伝統の赤備えを棄ててしまったようです。

対して被差別民にも高水準の銃器を持たせ、他隊と同じ前線で戦わせた長州側との差がすごいと思います。

ブログ写真の大礼服カッコいいです!!日本軍、支那事変時の昭五式の兵卒とか実はやりたいんだけど似合わないんですよね…(日本人のクセに!)

幕末の軍装、服飾関係は研究が進んだのがつい最近なので(70年代に途絶えた?)、私のような素人でも調べると一般の書籍にないことが多くわかるので面白いです。
>農家の納屋からヤタガン式銃剣
うおっ!あるところにはあるんですね!そういう話を聞くととてもうらやましいです。実物は人の持っているものか博物館でしかみたことないもんで…。

銃剣って当時の写真では腰の後ろに回しているのか、あまり装備している印象がないのですが、やはり多く持ちこまれていたみたいですね。ヤタガン銃剣は模造品しか持っていませんが、刀身がやたら長いので柄を長くすれば刀として使えそうですよねw。
もしかすると当時新品ではなく、南北戦争後に放出された南軍のものだったりするかも…。
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