ポンコツPAK-ブログサイド-

ミリオタ、エルンストによるブログです。
pixivでダラダラ描いてます。

アキバの某所製 幕府陸軍羅紗製軍服

2010-07-01 23:04:33 | 幕末


幕府陸軍やろうと思って1年くらい前に買っておいた某所の歩兵隊軍服です。クローゼットの奥に入れたまま、紛失したものと早とちりしてあきらめてましたがこのたび発掘www
自分アホスwwwwwwwww

でも、例の赤い山形の伝習隊のものではありません。ふふふ…さぁて笠を作る作業へ移ろうか…。

余談ですが、この製品自体は北軍のサックコートの改造のようですね。

ちなみにwikipediaにものってるブリュネ大尉のスケッチした「日本陸軍歩兵」は当時太田陣屋で伝習を受けていた旗本の学生のようです(朱鞘二本差しで歩兵てのは考えられん)
が、どうも彼が着ている軍服。

(ブリュネのスケッチ100枚より)
丸い折襟の紺のジャケットですがどう見ても北軍のサックコートをそのまんま着ているみたいです。

(オスプレイ 南北戦争の北軍 より)
こんなところにも中古品の存在感。

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6 コメント

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桜丘です (桜丘)
2010-07-04 22:51:42
 どうもこんばんは。またまたお邪魔させていただきます。

 この時代の軍服はフランス式という印象がありますが、どちらかというとアメリカ軍の古着のほうが、一般には出回ってたみたいですね。戊辰の軍服を極めるためには、じつはそっち系の資料のほうが手っ取り早かったりするのか…。

 なんかこのところ質問してばっかりで恐縮なんですが、また少し伺いたいことがあります。
 じつはいま幕府陸軍仏式伝習隊のイラストを描こうと思ってるんですが、鳥羽伏見時の彼らの軍装というのは、どんな感じだったんでしょうか。
 太田臨一郎氏の著書を中心にいろいろ調べてはみたんですが、記述が妙に具体性を描いてたりして、どうもうまくいかず…。

 いくつかの資料において確認できたのは、上下ともに白の側線の入った軍衣を着て、背嚢を負い、例のヘルメット様の軍帽をかぶるスタイルです↓
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/ce/3f0d0d9bbc25003d2cf75174f40421a1.jpg
 コレはワタシの手元の『新政「明治」の光と影』(学研)に載ってる解説図です。この本、妙に軍装関係の記述が充実してて、この他にも戊辰の薩軍や西南戦争時の官・薩両軍の挿絵つき解説が収録されてます(解説担当は笹間良彦氏。挿絵といい解説文といい、氏の『日本の軍装』のまんま焼き直しですw)。
 いまのところコレを参考にしようと思ってるんですが、日本刀とか、背嚢セットとか、軍帽とか、どうも気になる箇所が多く、「コレをそのまま信じていいのか?」という気が拭いきれません。Ernest様のほうでなにかお気づきの点がありましたら、教えていただけないでしょうか。
 よろしくお願いいたします。


P.S.
 陣笠&羽織一覧表、さっそく保存させていただきました! 素晴らしい資料をありがとうございます!
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改めましておいでませ!! (Ernest)
2010-07-05 23:22:50
では改めまして。一日がかりになってしまってすみませんでした。
級章参考にしていただきありがとうございます。ああいう図面式のイラストは初めてなので、頑張った甲斐がありました!
南北戦争の中古品などは相当数がアジア、中南米など第三世界の紛争に多く放出されたようでよく見かけます。日本では薩摩藩士の写真に残ってるほか、
将校用フロックコートなども佐賀、土佐藩士などに着用が認められます。

伝習隊の軍装ですが、
鳥羽伏見戦時においても「武器と防具 幕末編」に見られるような仏式軍装のはずです。日除けは季節的に外してたかもしれませんが。
「陸軍歴史」にある慶応三年ごろの歩兵ひとりあたりの支給品のリストには「軍帽」としかありませんが、付属品に「夏用日覆」と書かれておりケピ型軍帽と思われます。

掲示頂いた絵の兵士は先述の歩兵組の一部に支給された軍装を参考にしたスタイルのようで、おそらく明治期の絵巻物で描かれたものを参考にしており、ちと史実に正確なものではないようです。
(中西氏の「日本の軍装」など一番出回っているのは事実なのですが…)持っている銃もゲベール銃みたいですし。おそらく歩兵組と伝習大隊を一緒くたにしたものでしょう。
背嚢も前述の支給品リストには「仏式ランドセル」とあるのにイラストのものはフランス軍のM1857型背嚢とはだいぶ形状が違います。

笹間氏のイラストは参考になるものも多いのですが、現在では古くなってしまったものが多く、この幕軍の軍装もそのひとつです。
歩兵組と仏式伝習隊は編成経緯も装備も全く別物のはずなんですが、なんか混同されてしまってます…。
肩の白線も「銃隊式沿革図」などでは歩兵組第一連隊(記述が正確かどうかは不明ですが)の兵にみられますが、伝習隊にはなかったものと思われます。

日本近代軍服史からの引用ですが『維新調練図譜』という写本では黒/濃紺のケピ帽に兵卒は5つボタンの短ジャケットで袖に赤い山形章、
脚に白いゲートルというものが記述されてますが、これは未確認の為よくわかりません。

刀に関しては伝習の際に仏軍士官から「銃の取り回しには邪魔なので廃してほしい」という達しがあったそうです。伝習歩兵は帯刀せず銃剣のみ、士官はサーベルというのが一般的だったようです。

ちなみに仏式軍装の根拠として、慶応三年ころのブリュネ大尉のスケッチにのっていた兵士の姿をば。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/94/e960c5502b1e07cf53c4dd8851f860e9.jpg
厳密には砲兵隊のようです。砲兵は本来同心で帯刀身分ですが、この絵では刀は差さず短エンピール用ヤタガン銃剣のみを携帯し、下は靴履きですがゲートルの類は見当たりません。
支給品リストには「沓」と「紐」が描かれており革靴と思われますが、靴下のほうは「足袋」が支給されてたみたいです。(たぶんすぐ草鞋に履きかえられるから?)

太田陣屋を警備する兵士(遠景なのでわかりずらいですが…)日覆い付きケピに仏式ランドセルの兵士が描かれてます。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/1b/73d6c0f54cb3d1855bb3e6c67d15fa34.jpg

士官も陸軍笠を被っていた可能性はありますが、おそらく服は袖に黄色の階級山形章を施し、フランス軍のサーベルをもっていたはずです。
(「日本近代軍服史」によりますと仏軍伝習を受けた各兵科の士官は軍刀を自己負担でフランスから取り寄せたそうです)
また、軍装自体も仏軍のものが模倣されていました。
「襞取りマンテル」に「ジブスケ袴」のスタイルが写真などで残ってますが、これはフランス軍ズアーブ連隊の士官の軍装の模倣です。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/a9/69a88030a50c79d4ac26071783a28820.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/6e/74ea8e9fbccf383f5a410f6d8af2f777.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/5e/a48f4820eaea0ce7a42338dc6e87cfdd.jpg
また、撒兵頭並の揖斐吉之助氏の写真ですが、彼は鳥羽伏見戦時は伝習隊士官として従軍しており、
この襞なしマンテルに黄色山形階級章つき、黄色ズボン側線にサーベルという軍装は伝習隊時代の軍装ままであったと思われます。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/8f/1008272aa50d45a9c624849d8c003e0e.jpg
士官には制服というものがはっきりと存在せず、フランス軍のものを好き勝手に模倣して仕立てさせていたようです。なので様々なバリエーションがあるみたいです。
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追記 (Ernest)
2010-07-06 00:09:13
×級章○階級章

揖斐さんのズボンには側線ないっぽいですね。すみません。

あと、太田陣屋を警備する兵士のジャケットの右腰に切れ目がありますが、フランス軍歩兵がメキシコ征伐時に着用したジャケットにも同じ特徴があります。

長々となってしまいましたが、とりあえず終わらせていただきます。
また何かありましたら、画像を交えつつお答えいたしますのでどうぞよろしくお願いします。
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ご回答ありがとうございます! (桜丘)
2010-07-06 21:37:20
 詳細な解説を本当にありがとうございます。
 正直なところワタシ自身、蘭式歩兵隊と仏式伝習隊とを混同してしまっているフシがあったみたいです。ワタシのほうで貼った画像は、とりえず前者には、ある程度は妥当するということみたいですね。

 お教えいただいたことを総合すると、兵卒は

・白ケピ(帽垂つき)
・濃紺、シングルの半マンテル
・濃紺ズボン
・脚絆なし
・革靴
・仏式背嚢
・同ベルト(葵紋バックル)
・ヤタガン銃剣
・シャスポー銃

 …といった感じだったのでしょうか。
 
 ただ、個人的にはどうしても、『維新調練図譜』の記述が気になりますね…。たとえば帽子。衣服は紺なのに、帽子だけ白色ってのはどうも違和感があるような気がして…。白色って、戦場じゃかなり目立ちますし。
 兵卒の襟章・袖章とかも気になってしまいます。野口武彦『幕府歩兵隊』に引用されてる田島応親の回想にも、その存在を匂わせる一節がありますし。決定的な史料が残っていないのが惜しまれます…。
 あと、シャスポー銃は多分にワタシの希望的推測ですw

 しかしこれじゃあErnest様のpixivのイラストとまんま同じになってしまう! どうにかして差別化に努めたいと思います(笑)

 貴重な情報提供、重ねてお礼申し上げます。ワタシも人に頼ってばかりでなく、もっと自分でちゃんと調べるようにしないとなァ…。
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Unknown (Ernest)
2010-07-06 22:34:45
>蘭式歩兵と仏式伝習隊
結局伝習隊は2個大隊までしか完成せず、鳥羽伏見でも伝習第一大隊が鳥羽街道と伏見奉行所方面に半々ずつ配置されたのみにとどまってます。野口氏の本によればそれなりに活躍したようですが。
鳥羽伏見戦時の幕府軍の数の上での主力はミニエー重装備の蘭式歩兵六個連隊だったようです。

ほんと、装備に関してなんでこんなに資料が残ってないのか。本当にもったいないです。

>シャスポー銃
結局、鳥羽の戦場での伝習隊を見る限り、はっきりと前装/後装とわかる描写がないのでどっちともいえないみたいですね。まぁ銃がどうあれ伝習隊が比較的善戦したのは事実なようなので。(前装銃でも伏せたまま装填できないこともないみたいです)

あと、ケピですが、帽子自体は黒か紺色の羅紗で出来たもので、上から白い日除けを帽体にスッポリかぶせるタイプです。
アジアやアフリカ植民地の欧米軍隊ではこういう夏型のスタイルを季節に関係なくしていることが多いです。

自分、以前描いた伝習隊の絵では山形袖章の記述が判然としなかったため省いてしまいました。持ってるのも短エンピールですしw
軍帽の日除けは顎紐部分が露出するタイプで描きましたが、本来仏軍のものは露出しないようです。

自分も考証に関しては素人ですし、
同じ軍服を複数の人が描いてはいけないなんてことはないと思うので、(もちろん自分のと異なる考察の物も見てみたいですし)

自分としては桜丘様のものもぜひ見てみたいです。イラスト楽しみにしております(←せかすな)
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ああっ!タイトル忘れた (Ernest)
2010-07-06 22:50:52
×鳥羽の戦場○鳥羽伏見の戦場
うう…修正機能が欲しい。

>・白ケピ(帽垂つき)
 ・濃紺、シングルの半マンテル
 ・濃紺ズボン
 ・脚絆なし
 ・革靴
 ・仏式背嚢
 ・同ベルト(葵紋バックル)
 ・ヤタガン銃剣
 ・シャスポー銃
「武器と防具 幕末編」などとも照らし合わせた限り、今現在の考証ではそのような感じになるようです。
(あの本の編者のなかにむかし洋式兵学とか、戊辰軍事史関連を直接教わった方が二名ほどいらっしゃるので研究では先端をいってるはずです。やっぱり記章に関する記述はないけども…)
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