前回、師匠イエスの復活を確信してから、弟子が激変した状況を示した。
この変化は、新約聖書に収録される、福音書以後の書物にも直接反映している。
みな、イエスが神の子であることを当然の前提としたものばかりになっている。
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まず『使徒行伝』。
これは、イエスを「神の子」と確信した弟子たちの、伝導活動を描いている。
次いで、伝導活動に用いられた手紙がたくさん収録されている。
そこでの文章は、みな、イエスが創造神であることを踏まえた伝道文だ。
最後の『黙示録』は複雑だが、やはりイエスが創造神であることを当然の前提として述べられている。
<イエスを目に出来たが福音書はなかった>
イエスの使徒たちは、復活のイエス(の波動体)を直接目にしている。
生身のイエスの波動体を五感(視覚)認知している。
その反面、彼らは福音書はもっていなかった。
<イエスは現れないが福音書がある>
現代の我々は異なった状況にある。
今は復活のイエスは、我々の目の前に現れることはない。
代わりに、我々には、福音書という書物が与えられている。
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それでもって、復活のイエスをリアルに感知できるか。
もし出来るならば、我々は、弟子たちと同じように、永続確信を得ることが出来るだろう。
では、できるとしたら、どのようにしてか。
新しい問題だ。
我々はこれに取り組まねばならない。
(続きます)
キリストは今や肉体に制限されないいのちを与える霊となられ、私たちの霊のうちに聖霊により臨在されます。物理的に触れた弟子たちより深い霊の交わりが可能となりました。主は近い、リアルに感知できる方です。1コリ15・45です。