前回、筆者は描いた~。
目の前に現れた(波動体の)イエスは、復活した師匠であった。
弟子たちは、当初は「まさか・・・」であったが、しばらくしてそれを確信するに至った~と。
今回は、弟子たちのこの確信が、彼らの言動に激変を生んだことを述べる。
<罪ある者の復活はない>
ユダヤ教社会には伝統的な思想があった。
「創造主は罪ある者を復活させることはない」がそれだ。
この知識は当時の社会の、ほとんど常識であり、弟子たちもその中に生まれ成長してきていた。
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そうしたかれらが、なんと師匠イエスは「復活した」と確信した。
これは、そのままでは終わらない。
人間は皆「罪ある存在」だ。
罪なき存在は、創造神だけだ。
だから、師匠のイエスが復活したというのなら、師匠は神(創造神)であることにもなるのだ。
<わが主。我が神!>
実際、弟子たちは、それをも確信した。
たとえば、他の弟子たちに現れたイエスを、そのとき不在だった弟子のトマスは、復活のイエスと認められなかった。
次の聖句をみよう~。
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「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らと一緒にいた。
イエスが来て・・・・(中略)・・・トマスに言われた。
『あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。
手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい・・・(中略)・・・』
トマスは答えてイエスに言った。
『私の主。私の神』」
(ヨハネの福音書、20章24-25節)
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~「私の神」の語がトマスの口から出ている。
復活のイエスを確信することによって、弟子たちは、自動的に、イエスが神の子(創造神)であることをも確信したのだ。
<神を冒涜する若造め>
イエスは前から、自分を「神の子」と宣言し、創造主を「父(なる神)」と呼んでいた。
これがユダヤ人たちの怒りを買っていた。
彼らは、律法とユダヤ教の中で「神はお一人」と固く信じていたのだ。
そこに、「私は神の子」というのが現れた。
これでは神が二人であることになる。
ユダヤ人たちはそれを「神への冒涜」と認識した。
それが故に、イエスを殺そうと機会をうかがい続けていた。
<「イエスは神」と確信する>
弟子たちも人間だ。そういう伝統的思想環境の影響を受けつつ、イエスにつき従っていた。
だからイエスが「自分は神の子」と言っても、「そうかもしれないなあ」というレベルでしか受け取れなかった。
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それが、イエスの復活を認めたことによって、大逆転した。
「イエスは神(創造神)」とも確信することになったのだ。
すると、イエスが殺される前に言っていたことも、「全て神の言葉だった」「真理だった」と認識し直すことになる。
彼らは従来、イエスの言葉を「そうかもしれない・・・」という仮説的な感情を含めて認識してきた。
その「仮説(・・・かもしれない、という理論)」の全てが「真理(正しい理論)」に、
弟子たちの心の内でクルリと回転したのだ。
<「諸君も永遠に生きる」も真理に!>
「私が(復活して永遠に)生きるように、諸君も(復活して永遠に)生きるのです」というイエスの言葉
(「ヨハネの福音書」14章19節)も、変わった。
仮説感覚の言葉から真理の言葉に一転した。
これによって弟子たちは、自分の「天国での永続」をも確信した。
もう過去のことは問題でない!
怖いものはなにもない!
~彼らの言動は一変した。
<『使徒行伝』が描く激変>
その状況が『使徒行伝』に記録されている。
弟子たちはなんと、一転して「神がイエスを復活させた。我々はその証人だ!」と宣言し始めた。
そして、イエスの言葉を述べ伝え始めた。
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その状況を著者ルカ~「ルカの福音書」の著者でもある~は、詳細に描いている。
ステパノという執事の殉教事例を通して、克明に描いている。
(使徒行伝、6章)
師匠イエスが復活したという確信は、弟子たちの言動、生き様を激変させたのだった。
(続きます)
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