ヨハネ伝の著者ヨハネは、はじめはこのバプテスマのヨハネの弟子だったのではないか。春平太はそう推定しています。それもかなり側近の弟子だったろう、と。
そのことは、従来あまり気づかれていません。それは一つには、ヨハネ伝ではヨハネは自分のことを、直接表立った形で書いてないないからではないでしょうか。書くとしても、名前を出さないで、それとなく示しています。奥ゆかしいのでしょうか。
@ @ @
しかし、よく読んでみると浮かび上がってくるのです。ヨハネ伝にはこうあります。
ーーーある日、ユダヤ教(イスラエルの伝統的な国家宗教)の祭司たちが、バプテスマのヨハネに尋問に来ます(1章19節)。ヨハネ教団のあまりの人気と急成長のために、訊ねておかないわけにいかなくなったのでしょう。
ここでなされたやりとりに関しては、ここでは述べません。とにかく、ヨハネ伝では、「その翌日に」イエスがバプテスマのヨハネの方に近づいてきた、と記しています。
するとバプテスマのヨハネはこう言います。
「見よ、世の罪を取り除く創主の子羊」と(1章29節)。
~~これがイエスに関する「あかし」(証言)です。
@ @ @
そして、また「その翌日」に、イエスが歩いているのを見たバプテスマのヨハネはこう言っています。「見よ、創主の子羊」と(1章36節)。
このとき、ヨハネと一緒に、二人の弟子が立っていました。そしてその二人は、なんと、イエスの方に行って、イエスについていってしまうのです。
この二人がそのまま、イエスの教えを聞いて最初の弟子になります。未だかってない感銘を受けたのでしょう。ヨハネ教団をあっさり卒業して、できたてのイエス教団に入門です。
その一人は、アンデレでした。彼はシモン・ペテロの兄弟でした。ペテロは、後に、イエスの弟子に加わり、ヨハネと共にイエスの両脇を固める人です。
では、もう一人は? これが全く記されてないのですね。結論からいって、こういうケースは、著者ヨハネであると見て、ほぼ間違いないのです。
@ @ @
さてこのように、もう一人は著者ヨハネだった、としますと、このあたりの記述のなされた状況が一層明確に浮上してきます。
著者は、バプテスマのヨハネの言動を、「日付つきで」具体的に記しています。
バプテスマのヨハネは、ある日、ユダヤ教祭司たちの尋問を受けた。
「その翌日」に、「近づいてきた」イエスをあかしした。
そしてまた、「その翌日」に、こんどは「歩いている」イエスについてあかしした、
~~と記しています。
こういう具体的な描写は、バプテスマのヨハネにくっついていないと出来ないことでしょう。著者は、少なくとも、それらの日にはバプテスマのヨハネのそばにいたのです。
@ @ @
ヨハネ教団はすでに大きな教団になっています。たくさんの弟子がいる。その中で、バプテスマのヨハネのそばについておられる弟子はそう多くはないはずです。
少なくともイエスについていく日には、その二人は、バプテスマのヨハネの弟子として師匠の脇に立っていたのです。二人は側にいました。著者ヨハネは単なるバプテスマのヨハネの弟子だっただけではありません。教祖先生の側近だったのです。
@ @ @
そして、「二人がイエスについて行った」と記した後、ヨハネ伝の描写は、一転してイエスの側にいる人の目線から、記されるようになっています。著者の目線が、バプテスマのヨハネの側からイエスの側に移っています。
以後、彼は一貫してイエスの側近として居続けます。ペテロと共にイエスの両脇を固めました。水戸黄門の助さん、格さんのうちの、助さんような存在として、最後まで居続けました。
そういうことも、この伝記が、取材をもとに書かれたのではないことから、わかってきます。著者が、「自分の目で見たこと」をもとに書いているもの、そういう特別なもの、であることが、我々に計り知れない興味を与えてくれます。
そのことは、従来あまり気づかれていません。それは一つには、ヨハネ伝ではヨハネは自分のことを、直接表立った形で書いてないないからではないでしょうか。書くとしても、名前を出さないで、それとなく示しています。奥ゆかしいのでしょうか。
@ @ @
しかし、よく読んでみると浮かび上がってくるのです。ヨハネ伝にはこうあります。
ーーーある日、ユダヤ教(イスラエルの伝統的な国家宗教)の祭司たちが、バプテスマのヨハネに尋問に来ます(1章19節)。ヨハネ教団のあまりの人気と急成長のために、訊ねておかないわけにいかなくなったのでしょう。
ここでなされたやりとりに関しては、ここでは述べません。とにかく、ヨハネ伝では、「その翌日に」イエスがバプテスマのヨハネの方に近づいてきた、と記しています。
するとバプテスマのヨハネはこう言います。
「見よ、世の罪を取り除く創主の子羊」と(1章29節)。
~~これがイエスに関する「あかし」(証言)です。
@ @ @
そして、また「その翌日」に、イエスが歩いているのを見たバプテスマのヨハネはこう言っています。「見よ、創主の子羊」と(1章36節)。
このとき、ヨハネと一緒に、二人の弟子が立っていました。そしてその二人は、なんと、イエスの方に行って、イエスについていってしまうのです。
この二人がそのまま、イエスの教えを聞いて最初の弟子になります。未だかってない感銘を受けたのでしょう。ヨハネ教団をあっさり卒業して、できたてのイエス教団に入門です。
その一人は、アンデレでした。彼はシモン・ペテロの兄弟でした。ペテロは、後に、イエスの弟子に加わり、ヨハネと共にイエスの両脇を固める人です。
では、もう一人は? これが全く記されてないのですね。結論からいって、こういうケースは、著者ヨハネであると見て、ほぼ間違いないのです。
@ @ @
さてこのように、もう一人は著者ヨハネだった、としますと、このあたりの記述のなされた状況が一層明確に浮上してきます。
著者は、バプテスマのヨハネの言動を、「日付つきで」具体的に記しています。
バプテスマのヨハネは、ある日、ユダヤ教祭司たちの尋問を受けた。
「その翌日」に、「近づいてきた」イエスをあかしした。
そしてまた、「その翌日」に、こんどは「歩いている」イエスについてあかしした、
~~と記しています。
こういう具体的な描写は、バプテスマのヨハネにくっついていないと出来ないことでしょう。著者は、少なくとも、それらの日にはバプテスマのヨハネのそばにいたのです。
@ @ @
ヨハネ教団はすでに大きな教団になっています。たくさんの弟子がいる。その中で、バプテスマのヨハネのそばについておられる弟子はそう多くはないはずです。
少なくともイエスについていく日には、その二人は、バプテスマのヨハネの弟子として師匠の脇に立っていたのです。二人は側にいました。著者ヨハネは単なるバプテスマのヨハネの弟子だっただけではありません。教祖先生の側近だったのです。
@ @ @
そして、「二人がイエスについて行った」と記した後、ヨハネ伝の描写は、一転してイエスの側にいる人の目線から、記されるようになっています。著者の目線が、バプテスマのヨハネの側からイエスの側に移っています。
以後、彼は一貫してイエスの側近として居続けます。ペテロと共にイエスの両脇を固めました。水戸黄門の助さん、格さんのうちの、助さんような存在として、最後まで居続けました。
そういうことも、この伝記が、取材をもとに書かれたのではないことから、わかってきます。著者が、「自分の目で見たこと」をもとに書いているもの、そういう特別なもの、であることが、我々に計り知れない興味を与えてくれます。