時と共に、弟子たちは復活のイエスを殺される前のイエスの姿が変化した存在だと認知するようになった。前回、それを示した。
これによって、弟子たちのイエス認識は一変する。
だが、それを述べる前に、知っておくべきことがある。
イエスの復活は、前述したヤイロの娘やマルタ、マリアの弟ラザロの「生き返り」とは違っていた、ということだ。
彼らの生き返りは、罪を持った状態で、霊が肉体に戻っての生き返りだった。それを、エリヤやイエスがその権能を用いて行った。
だが、彼らの霊は罪を持っているから、彼らの生き返りは、「いずれまた死ぬ」生き返りだ。
<イエスの死は肩代わりした人類の罪による>
イエスの「よみがえり」は、それとは全く別ものだ。
その論理は若干複雑だが、示しておく必要がある。
イエスはまず、そもそも罪のない存在だから、死ぬ必要はない。
その状態で、人類が犯す全ての罪を肩代わりする。
その請け負った罪の故に、血を流して死ぬ。
<父に復活を切に祈っての死>
それは、「人の子」としてこの世に生まれる前に、父から命じられた仕事だ。
イエスは、その責務を実行する前に、父なる創造神に、死からの復活を切に祈る。
そして、その死から父なる創造主が復活させてくれることを信じて死ぬ。
<イエス自身には罪がないから復活させる>
イエスは人類の罪を肩代わりして抱いて死んだ。
たが、「イエス自身には」罪は全くない。それ故、父なる創造神は、彼を復活させる。
(その復活の姿を、波動体としての姿だと、前回に推察した)
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このように、イエスのよみがえりは、ヤイロの娘やラザロの生き返りとは根本的に違う。
罪なき存在(神の子)でなければ、起こりえないよみがえりだ。
英語ではそれを(リザレクション:resurrection)といっている。
復活したイエスの身体は、波動体となっている。
がともあれ罪がないのだから、もう死ぬことがない。
永続する。
最終的には、天国に帰って、永続する。
イエスの復活の論理はまだあるが、今回はここまでとする。
(続きます)