前回まで、復活のイエスの身体の状態を考究してきた。
(こういう考察はこれまでなされてきていないので、フォローするのに読者は苦労すると思う。
が、とにかく次のように筆者は考えた。)
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それは霊のような、超微粒子の結合体ではない。
生前の物質としての肉体でもない。
その両者の間に位置づけることのできる、「波動のまとまり」、物質に凝集する直前の波動体であるとイメージした。
<波動体は揺らぎを持っていた?>
波動体は物的な肉体のような、固定的な存在ではない。
波動だから、微妙な揺らぎをもっていただろう。
それが形成する漠然とした雰囲気、オーラをもっていただろう。
物質の肉体のように、五感にドシンと衝撃(インパクト)を与えるような明確さを、それはもっていなかった。
それ故、弟子たちは復活のイエスを、師匠だったイエスだとなかなか認められなかった。
<師匠だと認知するまで>
信じられない状態から始まって、弟子たちが徐々にイエスだと認知していく状態を、福音書の記述のなかに追ってみよう。
① まず、マグダラのマリアの「イエスに会った」という証言を聞いても認められかった。
(ヨハネの福音書、20章18節)
② エマオという地に向かう二人の弟子(いわゆる使徒ではなく、彼らの周りを取り巻いていた信徒)が、イエスに会って共に食事をした、と証言した。
弟子たちはその証言も信じられなかった。
(ルカの福音書、24章13-35節)
③ 10人の弟子たちが戸を閉め切った部屋にいるところにイエスが現れた。
イエスは弟子たちの心のかたくなさを叱ったのち、自らの手と脇腹を示された。
このとき弟子たちは、ようやっと師匠だと認め始めた。
(ヨハネの福音書、20章19-20節)
④ 弟子の一人トマスはその場にいなかった。
話を聞いたトマスは「その人物の手の釘跡、脇腹への槍の刺し傷に手と通さねば絶対に信じない」といった。
(ヨハネの福音書、20章24-25節)
⑤ その八日後にそのトマスがいるところに再び現れたイエスは、トマスの言葉を知っていた。弟子たちの前でイエスは彼を叱った。
(ヨハネの福音書、20章26-29節)
これによって、11人の弟子たちはついに、波動体イエスを師匠のイエスと認知するに至った。
(続きます)