前回の問題~
「創造主とイエスを知るだけでいいのか、信じなくていいのか」
~を考えよう。
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まず、そもそもの言葉の意味から~。
<知る>
「知る」は、ある信号(情報)を心に受信してキープしていることだ。
これは「知っている」と解するとわかりやすいだろう。
<信じる>
他方「信じる」はどうか。
これは信号(情報)に「これは究極の真理だ」という判断を付加して
受信する状態~あるいはしている状態~を言っている。
<真理判断は人には不可能>
でも考えてみよう。
ある情報について、「真理だ」と判断するのは、客観的な意味では人間には不可能だ。
(可能ならば、科学の仕事~真理の限りなき追求作業~はすぐに終わってしまう)
つまり「これは真理である」という判断は実質的には空虚なのだ。
「信じる」は「知った情報」にほとんど「何の意味も付加していないで」受信している。
それは「知る」と結果的には同じような行為なのだ。
<他の情報に耳を塞がせる>
それだけではない。「信じる」という気持ちでの受信の仕方は、認識上のマイナスも産む。
ある知識情報を「これが究極の真理だ」と思うと、人はそれにしがみつく。
その結果、それ以外の他の知識情報に対して排他的意識を、心に形成することになる。
つまり、結果的に、他の情報に耳を塞いでブロックするだけのことになるのだ。
<真理願望>
でもイエスは通常人間には「信じなさい」の語を使っている。
それは人間が「究極の真理を知りたい」という真理願望を生来心に抱いているからだろう。
その気持ちを満たすために人は、新しい教え、知識を「信じる」として受容したいのだ。
そしてイエスも、それに合わせて、「信じる」の語を使っているのだろう。
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だったらなぜ、イエスは上記、(ヨハネの福音書、17章3節)で、「知る」といっているのか。
それを、次回に探求しよう。
(続きます)