鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「信じる」の意味、「知る」の意味

2022年07月24日 | 永続確信のための聖書解読

 

 

 前回の問題~ 

 「創造主とイエスを知るだけでいいのか、信じなくていいのか」 

  ~を考えよう。 

 

+++ 

 

 まず、そもそもの言葉の意味から~。 

 

<知る> 

 

 「知る」は、ある信号(情報)を心に受信してキープしていることだ。 

     これは「知っている」と解するとわかりやすいだろう。 

 

<信じる> 

 

 他方「信じる」はどうか。 

  これは信号(情報)に「これは究極の真理だ」という判断を付加して

  受信する状態~あるいはしている状態~を言っている。 

 

<真理判断は人には不可能> 

 

 でも考えてみよう。 

  ある情報について、「真理だ」と判断するのは、客観的な意味では人間には不可能だ。 

 

  (可能ならば、科学の仕事~真理の限りなき追求作業~はすぐに終わってしまう) 

 

  つまり「これは真理である」という判断は実質的には空虚なのだ。 

  

   「信じる」は「知った情報」にほとんど「何の意味も付加していないで」受信している。 

      それは「知る」と結果的には同じような行為なのだ。 

 

<他の情報に耳を塞がせる> 

 

 それだけではない。「信じる」という気持ちでの受信の仕方は、認識上のマイナスも産む。 

 

 ある知識情報を「これが究極の真理だ」と思うと、人はそれにしがみつく。

  その結果、それ以外の他の知識情報に対して排他的意識を、心に形成することになる。 

 

  つまり、結果的に、他の情報に耳を塞いでブロックするだけのことになるのだ。 

 

<真理願望> 

 

 でもイエスは通常人間には「信じなさい」の語を使っている。 

 

  それは人間が「究極の真理を知りたい」という真理願望を生来心に抱いているからだろう。 

   その気持ちを満たすために人は、新しい教え、知識を「信じる」として受容したいのだ。 

 

  そしてイエスも、それに合わせて、「信じる」の語を使っているのだろう。 

 

 +++ 

 

  だったらなぜ、イエスは上記、(ヨハネの福音書、17章3節)で、「知る」といっているのか。 

   

   それを、次回に探求しよう。 

 

(続きます) 

 

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「聖書本来の思想」をいま少し

2022年07月24日 | 永続確信のための聖書解読

 

   統一教会問題に関する考察は、以上で一段落した。 

  結局、「聖書本来の理論・思想を身につけていること」だけが、洗脳回避策となることがわかった。 

 

 身につけてないで接触してたら、洗脳もマインドコントロールもなされるがままになる。 

  洗脳を避けるには、接触を避け、逃げまくるしかない。 

 

+++ 

 

  だが、それだけでいいのか? 

 

  本稿の出発点での考察目的は「聖書から永続確信をどう抱けるか?」だった。 

 

 早くそれに戻りたいが、この機会に、聖書本来の思想を知るための知識を、

 もう少し述べておく必要も感じるのだ。 

 

+++ 

 

<「永遠のいのち」を得る簡単な方法> 

 

 筆者は先回、聖書思想の核心は「“永遠のいのち”を(霊に)得ること」だといった。 

 

 それを得る簡単な方法は、聖書にないか? 

  次の聖句を見よう~。 

 

****************** 

  「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、

   あなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです」 

          (ヨハネの福音書、17章3節) 

******************* 

 

 「永遠のいのちとは・・・・を知ること」というのは、イエス独特の表現だが、言ってることはこうだ~。 

 

 「永遠のいのちを得る方法は、創造主が唯一のまことの神であることと、

   その神が遣わされた救い主イエス・キリストを知ることである」。 

 

+++ 

 

 さてこうなると大きな問題が生じる。 

 

  まず、「知るだけでいいのか」「信じなくていいのか」というのがそれだ。 

 

+++ 

 

 実際、イエス自身も、こういう時にはほとんどの場合「信じる」の語を使っている。 

  

***************** 

  「わたしを信じる者は、たとえ死んでも、生きるのです」 

       (ヨハネの福音書、11章25節) 

***************** 

 

   一体どうなっているのか?

    どっちが正しいというのか。

     次回に、この問題を吟味しよう。 

 

(続きます) 

 

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