発展した時代、昭和に生きた若者の徒歩旅日記
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世界徒歩大旅行記3万4千キロ
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日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの約15,000kmを歩き終わり、1983年10月10日から1985年9月27日まで約2年間シンガポールからポルトガルのヨーロッパ大陸最西端であるリスボン近くのロコ岬まで約19,000km徒歩で横断。
12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(ネパール)-180
8)ネパールを歩く
日記から-3
4月14日 (土曜日) 晴れは晴れでも山が見えない
朝早く出発をする。今日は歩きの調子が良い。
Itananという町でチャイ(紅茶)を飲んでいた時のことである。
その後で水をその店からもらった。そこにネパール人かインド人の旅行者がバスから降りて、同じように水を店からもらったのである。
旅行者の彼は店に水が汚いと文句を言い飲まないのであった。実際、彼の持っている水を見たら、濁っていて透き通っていないのである。
だが、その時俺はすでにその水を飲んでしまっていたのであった。
こんなことがあり、今の俺は地元の旅行者より、現地人化されているのをつくづく感じた。
Dharan Bazarに着く。ここは山の麓の町である。明日からはまた山に入るので嬉しい気持ちもある。
今日の昼はジャングルばかりを歩いたように思う。半分以上が木が多い林の様であった。
だから、誰もいないところが多く、たまには野生のサルなどを見かけた。こんな所はやはり気分が和む。
今日は靴が悪いのにもかかわらず、52~53km歩いた。
今日はこの町Bharan Bazarのロッジで泊まる。宿泊料が15ネパールルピーである。
ここの食堂でチャイ(紅茶)を飲んでいたら、日本人とそっくりな人と知り合いラム酒を奢ってもらう。
彼は少しホモの気があるようで、深入りしなかった。
それにしてもこの町は酒屋が多いように思う。また、ここネパールはインドより金持ちなのかもしれない。
彼らの暮らしがその様に見えるのである。
出費 35.75ネパールルピー
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筆者は現在、韓国に住んでいて以下の様な韓国とのビジネスサポートをしています。よかったら見てください。
www.shozonkb.com
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12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(ネパール)-179
8)ネパールを歩く
日記から-2
4月13日 (金曜日) 曇り
昨夜、ロッジで夜中じゅう南京虫と格闘した。
体中、隙間のないぐらい南京虫に刺された。これもゴキブリを見た時のように寒気がする。
初めは電気を点けても何処にいるか分からなかった。
2~3回電気を点けたり、消したりしているうちに、蚊帳を上から吊っている4隅に沢山隠れているのが分かった。
電気を消した暗い状態にだけ人間の体に降りてきて刺すのであった。南京虫は非常にかゆく参った。
昨夜はこの様な南京虫との戦いと痒みとの戦いあり、今日は寝不足である。
昨日も書いたが、靴が悪く、早くも長くも歩いていられない。靴の中側がガタガタで足の裏が痛い。
どうにか、カトマンズまで靴が持ち、また、足の状態が良くなってくれ!
今日の3時ぐらいだと思う。結構大きな町でチャイを飲んだら、そこの人にいろいろな話を聞かせてもらった。
初めは皆がよそよそしくジロジロ見ているだけであったが、一人の人と話をしだしたら、ド~と皆に囲まれた。
ガレージの若いオーナーは俺にドイ(ヨーグルト)とダージャリンで飲んだチャン(ネパールではジャンと言うようだ。)を沢山飲ましてくれた。
(チャン:ヒエか? アワの穀類を発行させたものから取る酒)
沢山飲ませてくれて、ありがとう。それにしても昼から酒はきつい。
夕方、大きな河を見つけた。食事はその河を過ぎてからの食堂でしたが、もう一度その河に戻り、河の横でテントを張った。
テントを張った後、水浴びをその河でして眠る。水浴びが気持ちよかった。
出費 13.00ネパールルピー
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12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(ネパール)-178
8)ネパールを歩く
日記から-1
ネパールの歩いた道。東から入りポカラから南に下りた。
今日からネパールである。
俺は美しい山が見れるということで、大変期待をして、山の国ネパールに入る。
前回と同じ4月12日 (木曜日) 晴れ
昼、国境に着く。国を超え、すべてが変わるのではないかと思ったが、インド人と同じ顔の人々も多い。
家々の数が少なくなり、家の作りが変わる。それは高床式の家であり、インドの土の家ではない。
インドでは土の家を見ているだけで暑さを感じた。この高床式の家を見ていると涼しさを感じる。
しかし、この辺は歩いていて結構暑い。
前後するが、国境での手続きがやはり時間がかかった。それでも日本人には優しく簡単であった。
通関の時、インドとネパールとも荷物を見なかった。その時は簡単であったが、貨幣を交換したりするのにウロウロしたりで結構疲れた。
この後、チャイを飲みたかったが、国境の近くでは余りにも観光ずれしているのではないかと思い、しばらく歩いてチャイの店に入った。
そこでは人々とすぐに打ち解け、長い間会話をした。結構、ネパール人も英語を話す人がいる。
話をしている内に打ち解けたからかチャイの金を取らずに、奢ってくれた。
ネパールでは顔が似ているからか、俺の気持ちが安定している。腹が立たないのである。
ネパールでもホテルと呼ぶ食堂で昼食を食べ、チャイを飲んだ。
ここの値段が5.75ネパールルピーであり、これはあまりインドの物価とは変わらないのではないかと思った。
このネパールも物価が結構高く、先が思いやられそうである。
靴の中がもう駄目である。昨日、山を降りて来る時に靴に負担をかけすぎたようだ。
その為、中側のいたる所で靴底のゴムの内側が出っ張り、足の裏に大きな負担がかかっている。
だから、水脹れがまた出来始めた。
この靴はダージャリンで一度は靴底と上の部分とを縫い合わせ、修理をしたのだが、この先何処までもつのであろうか?
ネパール第一日目は小さな村のロッジ(宿所)を見つけ泊まることにする。
それは今日が暑い日で、足とかTシャツから久しぶりに塩が吹いて白くなっていたから、この汗を洗い流す為、シャワーを浴びたく、ロッジに泊まったのである。
ここではダブルベッドの部屋だけ空いていて、宿泊料が20ネパールルピーである。
この街の感じはインドとは異なるように思う。
それは何だか、アメリカの田舎の村のように少しの家が固まり、周りには隙間が空いて、だだっ広いのである。
出費 37.25ネパールルピー
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12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(インド)-177
7)インドを歩く
日記から-36
4月12日 (木曜日) 晴れ
俺が高地から降りて来たからだろう。ここの朝はダージャリンの様なキリットした寒さを感じない。
テントをたたんで、お湯を沸かしダージャリンで買った紅茶を飲む。
茶畑や林を通り、Naxlbariへ。
この辺りに来ると元のインドの感じに戻る。即ち、土で出来た家々で、大きな木がその横にあり、暑い感じがある。
また、人々は俺を見てネパールから買出しに来たかのように思い、笑うのである。
そこに来るまでは家々や街の感じが山の中のようで、家は木で建てられていた。決して暑い地域を思い起こさせなかった。
ネパールとの国境に着く。
ここでインドとしばらく別れるということで、その村の店で最後にチャイ(紅茶)を飲んだのだ。そうしたら、その店は金を取らなかった。ありがとう!
出費 3ルピー
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12、シンガポールからヨーロッパまで歩く(インド)-176
7)インドを歩く
日記から-35
4月11日 (水曜日) 晴れのち曇り
朝はすごく綺麗に晴れ、ヒマラヤの山々が上から下まで良く見えた。信じられないくらいに綺麗であった。
そんな景色を写真に撮ろうとカメラを探したら、カメラがないのである。
9日か10日に盗まれたのである。何とツイてないのだ。ここに来て日本人が多く泊まっているというので油断してしまった。
バカであった。そのカメラには写真を1枚だけ撮ったフィルムがあるだけだから、フィルムには未練はない。
また、カメラはよくぶつけていたので、まともに撮れないので、未練があるわけでもない。
ただ、これから行くネパールで綺麗な山々を悪いカメラだったが、悪い写真でも撮れないのが残念だ。
ネパールのカトマンズでは旅行者が多いので、彼らから、どうにかして、カメラを買いたいものだ。
今日は山の下りだからか、快調に歩き50kmを簡単に越してしまった。その上、国境までの近道を聞いているので、気持ちが楽である。
近道を通ったのは、前に許可がないということで引き返したときと同じ道を通りたくなかったから、別の道を通りたかったという意味もある。
夕方、小さな村で夕食を取りに食堂に入る。そこでは多くのネパール人に囲まれて、親しく話しかけられた。
彼らは俺にネパールの人の名前を読ますのであるが、発音が悪いと皆に笑われる。
この様な所ではダージャリンのような観光地と違い外人が来ることがないのであろう、俺のような人間が珍しいようである。
皆が地酒であるロキシーを俺に奢ってくれる。
この後、食堂を出て、すこし歩き、林の中でテントを張る。
出費 9.80ルピー
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