探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

大日向家 ・・府中小笠原家・庶流

2014-03-19 00:40:44 | 歴史

    府中小笠原家・庶流

  大日向家

大日向氏

家紋は二引両。裏紋は小笠原出自の三階菱


大日方氏・・おおひなたし、おびなたし
大日方氏は信濃国水内郡に本拠をおいた日本の氏族。守護の小笠原氏の庶流だが、小笠原氏とは敵対関係にあった村上氏に与して小川庄(小川村)を拝領し、本拠とした。後には武田氏に臣従し、水内郡から安曇郡にかけてを領して北信濃に一定の勢力を保った。

出自・・・
詳らかではないが、小笠原長利(大日方長政)が祖とされる。下記はその説・・分裂していた小笠原氏を統一した小笠原長棟には子がなく、後継者とするため弟の長利を養子とした。ところがその後、長棟に長時が誕生して長利と長時は不和となった。・・このため長利は小笠原家を出て、安曇郡広津村大日方(生坂村)に館を構えて大日方氏を称したのが始まりとされる。・・大日方長利は香坂忠宗(香坂安房守)を後見人とし、当時小笠原氏とは信濃を二分して対抗する勢力であった村上氏に臣従した。・・時期については諸説あって定まらないが、村上氏に従属していた小川氏が背いたため、党首の村上顕国は香坂忠宗(香坂安房守)に命じてこれを討たせた。大日方長利はこれに従軍して小川氏の本拠である布留山城(古山城)(小川村)攻略で功を上げた。これによって大日方氏は小川庄を与えられ、大日方長利は大日方長政と名を改め小川・古山城を本城とした。

武田氏への臣従
大日方直忠が当主の時代に、甲斐国の武田晴信(信玄)による北信濃侵攻が始まった。武田軍は仁科方面から山県昌景が侵入して小川・古山城への入口に位置する千見城(大町市)を落とし、守将の大日方長辰(直長とも)は敗死した。・・これを機に大日方氏は、武田氏への恭順派と、抗戦派に二分した。直忠には五人の子がおり、長男の直経は徹底抗戦を唱えたが、残る4人の弟(直武、直長、直龍、直親)は恭順派だった。弟たちは謀議によって文道古城(長野市鬼無里)城主の直経を襲撃し、直経は重傷を負って自害した。これによって天文二十一年(1552)大日方氏は武田氏への恭順が認められた。・・その後大日方氏は武田氏に従い越後上杉氏との川中島の戦いにも参戦しており、川中島平の中央部とも言える広田地区にも所領を与えられて居館を構えた。大日方直長は上杉氏によって陥落した千見城を奪還し、武田信玄から感状を受けている。また天文二十三年(1554)には安曇野で信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏が小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に仲介をして功績を認められている。・・永禄元年(1558)には中条地区の支配権も与えられた。川中島の戦いの頃の軍役は百十騎と伝えられ、大日方一族全てを合わせると三百騎を超えたとも言われており、周辺の屋代氏の七十騎や麻績氏の十騎、室賀氏の二十騎、栗田氏の六十騎等に比して突出した規模であり、その動員兵力は9000人~10000人前後に及ぶものと推定される。・・また、上杉謙信の戸隠攻めに際して戸隠から逃れてきた僧侶を受け入れたため、本拠の小川は後世まで「坊」と称された。

武田氏滅亡後
甲斐武田氏の滅亡後、織田配下の国衆木曾義昌により領地安堵の朱印を受けるが、織田信長の死後に生じた武田遺領の甲斐・信濃を巡る天正壬午の乱による上杉氏の北信濃侵攻によって領地安堵は果たされないまま大日方氏は徳川氏の支援を受けていた小笠原方と上杉方に分裂してしまう。上杉方についた者の多くは、慶長三年(1598)上杉景勝の会津への移封の際に帰農し小川に土着したとされるが、一部は後に松代藩に真田氏が上田から転封して来るとこれに仕えた。現在も小川村を始め近辺には大日方姓は多い。



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