探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原清宗  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-09 22:33:07 | 歴史

     府中小笠原家

 小笠原清宗

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小笠原清宗

生没年:1427-1478
父:小笠原持長
正室:
子:長朝 1443-1501、長政・大日向氏の祖、光政・林家の祖?

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清宗の情報は極めて薄い。府中小笠原氏の停滞は、後見となっていた畠山家が、京都で勢力争いから脱落して衰退したことと重なるようだ。清宗の時代、応仁の乱は始まっていた。

概容・・・

室町時代の武将。応永三十四年(1427)生まれ。小笠原持長の子。信濃府中(松本市)に勢力をはり、信濃守護職をついだ小笠原政秀と対立した。文明十年12月8日死去。52歳。

小笠原清宗は林城を築き、居館をその麓に移します。

応仁元年(1467)頃から清宗は、鈴岡の小笠原政秀(小笠原家惣領)から攻撃を受けて、府中に攻め込まれた。しかし府中・小笠原家を盛り返して、子の長朝を鈴岡へ養子に出し、家督を相続する約束をする。

また、府中小笠原氏の成立康正ニ年(1456)ごろ、持長の子小笠原清宗は、伊那の小笠原光康と争い、清宗を関東の足利成氏が、光康を越後の上杉房定が支持するなど対立が複雑化するところへ、宝徳元年1449)から諏訪氏の内訌も加わつた。

・・・清宗のころ、府中は不安定。諏訪神族との関係が悪く、加えて小笠原家の三家鼎立の抗争中であった。

 

林城・・

 

林城は、山城である。

小笠原清宗は、鈴岡・政秀に攻められた。これが恐らく、林城築城に繋がったのであろう。山城は、守るに易く、攻めるに難しの特徴を持つ。林城を主格に、防衛戦の山城の支城を周りに配した。規模は、恐らく日本一の山城群であろう。

だが機能したかどうかは、きわめて疑わしい。以後林城が戦火にあった例はない。武田に府中を攻められた時も、この山城の支城の群は、すべて自落している。小笠原長時は、林城に入らずに家臣の城に逃げ込んでいる。

城を作らなかった信玄に比すと、林城築城の清宗は、到底戦国武将とは思えない。

 

 

 


小笠原持長  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-09 01:34:11 | 歴史

      府中小笠原家

 小笠原持長  信濃に ”応仁の乱” を持ち込んだ男!

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小笠原持長
時代 室町時代前期 - 中期
生誕 応永3年(1396年)
死没 寛正3年6月15日(1462年7月21日)
別名 豊千代丸(幼名)、彦次郎(通称)
官位 右馬助、民部大輔、大膳大夫、信濃守
幕府 室町幕府信濃守護
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長将、母:側室
子 清宗

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概容・・・

小笠原持長は、室町時代中期の武将、守護大名。信濃守護。父は小笠原長基の長男小笠原長将、母は側室。子に清宗。府中(松本市)を本拠とした府中小笠原氏の祖。

同時代に同姓同名の別人がいるが、こちらは京都に移り住み有職故実を専門とした同族である。・・・京都小笠原家系譜


応永3年(1396)に京都の小笠原家屋敷で生まれたが父は早世、祖父の死後家督は2人の叔父長秀・政康に移り、嘉吉2年(1442)の政康の死後は従弟の小笠原宗康に継承された。持長はこの状況に不満を抱き、畠山持国の後ろ盾で家督相続を主張、文安3年(1446)に実力行使で宗康を討ち取った(漆田原の戦)。しかし、宗康は事前に弟の光康に家督を譲り、持国と対立する細川持賢及び甥の細川勝元も光康を支援したため、家督の奪取はならなかった。
宝徳元年(1449)に諏訪大社が上社と下社に分裂すると騒動に介入、下社を支援している。同年に勝元が管領を辞任、代わって持国が管領に就任すると宝徳3年(1451)に光康に代わって信濃守護に任命された。しかし、翌享徳元年(1452)に勝元が管領に再任されると享徳2年(1453)に守護職を交替させられ光康が守護に再任された。
寛正3年(1462)に死去、享年67。子の清宗が後を継いだ。清宗も家督を巡って光康の子家長及び宗康の遺児政秀と対立、小笠原氏は清宗の府中小笠原家、家長の松尾小笠原家と政秀の鈴岡小笠原家に分裂、衝突を繰り返して衰退していった。小笠原氏の統一は持長の玄孫長棟が光康の曾孫貞忠を降伏させる天文3年(1534)までかかることになる。

 

畠山持国の後援・・・

畠山持国の支援を受けられた背景には持長の母が持国の妾となって息子義就を産んだからとされるが、持長と義就の年齢差が大き過ぎるため近年では否定されている(義就は永享九年(1437)生まれであり、兄とされる持長とは41歳も差があるため)。・・・三管四職家のうち、主に第3代将軍足利義満の時代に取り立てられ勢力を躍進させたのは赤松氏、一色氏、そして持国の畠山氏であったが、義満時代に有力な守護大名であった斯波氏や山名氏が弱体化すると、上の三家が将軍権力の障害となるようになった。特に三管領の一角を占める畠山氏は幕政の中核をしめ、代々の将軍にとって目の上のたんこぶであった。・・・六代将軍足利義教は畠山満家の死後、「万人恐怖」と評される恐怖政治を敷き、特に上記三家に対する干渉を強めるようになった。義教は赤松満祐の同族・貞村を重用し、永享十二年(1440)には一色義貫・土岐持頼が殺害されている。嘉吉元年(1441)には義教の矛先は畠山氏に向けられ、持国は結城合戦の出陣を拒んだことから家督を弟持永に譲らされ隠居を余儀なくされる。・・・七代将軍に義教の嫡子の足利義勝が就任し、赤松氏が討伐されると持之は管領を辞任し、持国が管領となる。同年、出家し徳本(とくほん)入道と名乗る。翌年に満祐が擁立していた足利義尊を討ちとり、嘉吉3年(1443)に義勝が病死すると足利義政の八代将軍就任に運動する。禁闕の変に対処したり、嘉吉四年(1444)に嘉吉の乱平定の功労者だった山名宗全を懐柔するため、満祐の従弟の赤松満政が領有する播磨東三郡を宗全に与え、伊勢貞親と義政の擬似父子関係を取り結んだりもしている。

信濃守護・小笠原氏は当主の小笠原宗康と従兄の小笠原持長が対立、文安三年(1446)に宗康が戦死して弟の光康が後を継いだ。持国の二回目の管領在任期の宝徳三年(1451)には持長が守護になっており、それまでは光康が守護だった事から、持国は持長を、細川氏は光康を立てていた事が分かる。・・・応仁の乱の対立構造。

 

応仁の乱の予行の如くに・・・

応仁の乱は、畠山持国が対立構造の芽をつくり、持国の子息が勢力争いで対立し、京都幕府内の対立構造に発展して始まったとされる。小笠原持長は、母を同じくする関係から、持国の後援があり、小笠原宗家を奪取すべく胎動を始めた。畠山家が始めた応仁の乱の、予行の如くに、である。持長はまず、当時守護の、松尾小笠原宗康と対立する。その最初の戦いが、漆田原の戦であり、戦力優勢であった宗康が戦死する。

漆田原の戦・・・

文安三年(1446)、小笠原宗康は父の小笠原政康から家督を相続していたが、従兄の小笠原持長との間で相続をめぐる争いになった。宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死の際は家督を譲り渡す条件で協力の取り決めをして漆田原(長野駅付近)での持長軍との合戦に臨んだが敗死。持長は宗康を討取ったが家督を手中に出来ず、対立は子らの代にまで続いた。この戦いで、信濃国人衆は、国を二分した状態になった。この後さらに小笠原家は三家に分裂して行った。


持長の後援・畠山持国の勢力衰退

漆田原の戦いで持長は、松尾の守護・宗康を討ち取り、管領・持国より守護の座を補任されるが、普及せず名目だけになった。翌年、畠山持国が、細川氏に管領職を奪われると、細川氏は松尾小笠原光康を支持し、光康に守護職を与えた。こうして府中小笠原持長は野望を遂げられずに、対立は続くことになる。幕府は細川氏の時代になって、くすぶっていた対立に火が付き、応仁の乱が始まった。

宗家混乱の整理

まず、府中小笠原家が、時々深志小笠原家と表示されることがある混乱について・・・
府中は、今の松本を言う、昔の地名であった。府中の元は、平安時代以前に、国衙があった場所で、地方政治の政務が行われたところであった。場所の比定は、今の信大・医学部・本部から美ヶ原温泉の間の総社辺りの里山辺と思われる。国衙が政務の機能を果たさなくなったのは、鎌倉初期と推定されるが、府中の名前のみは残り、小笠原氏は総社の近くの井川に居を構えたのが始まりで、以後この地を拠点にして府中小笠原家と呼ばれた。深志城は、井川館と林城の支城として、家臣の溝口家系島立氏が築城し、家臣坂西家の居城として、武田家の府中攻めまで続いた。信玄は、小笠原長時を駆逐すると、この地方の治世の拠点に、林城ではなく、深志城を拡大して選んだ。時が経ち、信長が死んで、小笠原貞慶が松本に戻ると、深志城を受け継ぎ、整備して、ここを拠点とした。従って、松本にある小笠原家を、総じて深志小笠原家というのは正確ではない。一般に府中小笠原家の方が正しく、より正確を望むなら、貞慶時代以降のみ深志小笠原家というのが理屈に合っている。

宗家混乱について・・・
小笠原家の宗家については、三家とも宗家たる意識があったようだ。ここで、小笠原宗家の定義をしてから眺めると、信濃国守護の資格があるかどうかが問題で、三家の自意識と支持する地方豪族と守護職を補任する室町幕府がどう見ているかが問題となる。足利将軍家から貰った家宝の書も資格としてあるが、幕府から見た宗家は、三家鼎立以後は、鈴岡、松尾にあり、貞棟が松尾と戦い、松尾を駆逐してから、小笠原貞棟を守護に認めたという経緯から、上記の順序が、宗家の認定でいいのではないかと思う。これを最後の宗家・府中小笠原家と固定して、以前も宗家であったとするのは、この説は意外と多いが、かなり乱暴な論理の組み立てのように思う。

 



藤沢家 伊那谷の小笠原家庶流

2014-03-08 06:42:17 | 歴史

藤沢氏

藤沢氏は、系譜的には諏訪神族である。
ただし、藤沢氏最後の当主・藤沢頼親は、正妻が守護小笠原長時の妹で、信玄の信濃攻めで、小笠原と武田が対立した時、終始一貫して小笠原家と向背を同じくしており、最後の追放されて京都の逃れる際も、小笠原の頼った京都三好家へ身を寄せている。また、小笠原貞慶が信濃の旧領を回復しようとした時も同調している。つまり、藤沢頼親に限れば、小笠原家の庶家と言うことも出来る

藤沢頼親
生没:? - 天正10年(1582年)
戦国時代の武将、信濃国福与城主。
諏訪大社大祝家の諏訪氏の分流にあたる藤沢氏の生まれ。
父は藤沢隆親。妻は小笠原長時の妹。
福与城は箕輪城とも呼ばれたため、箕輪次郎と呼ばれた。弟に権次郎がいる。

福与城、箕輪城
城の種別:平山城(崖端城)
築城時期:
築城者:箕輪氏、藤沢氏
主要城主:箕輪氏、藤沢氏
遺構:曲輪、堀切、空堀越しに見る主郭
住所:長野県上伊那郡箕輪町中箕輪字木下

概容
室町時代に箕輪氏の居城として築かれた。天文年間には福与城の支城としての役割を果たしていた。(福与城のことを箕輪城と呼ぶ場合もある。)
木下総蔵、福与城主藤沢頼親の養子左衛門尉重時が城主であった。武田信玄の伊奈攻略により藤沢頼親は、伊奈の地を追われたが、天正10年(1582年)武田氏滅亡後、福与城に拠り旧領を回復しようとしたが、保科正直に攻められ滅亡したため、箕輪城も廃城になったと言われている。 現在は、養泰寺の墓地に空堀などが残る


藤沢氏

 ●梶の葉 ●諏訪神氏流  ・・・推定

以下、「戦国 武家家伝藤沢氏」からの引用による ・・・

『戦国時代、信州伊那谷の福与城に拠って、武田氏に抵抗した藤沢氏の出自については二説がある。一つは、諏訪神氏の支流で、神氏から出て藤沢谷の地頭となって、その後勢力を伸ばして上伊那北部一帯を治めるに至ったとする説。もう一つは相模国藤沢の住人藤沢義親の一族藤沢行親が、承久の乱の功によって鎌倉幕府から箕輪六郷を賜り、福与に城を構えたとする説とである。この二説がどのように関連しているかは詳らかではない。・・・さて、諏訪に神領・藤沢谷の藤沢氏はのちに木曽義仲の挙兵に加勢したが、義仲が滅んだのち源頼朝に従い、鎌倉幕府が開かれてからは頼朝の御家人となって忠勤を励み重用されたという。藤沢氏が御家人として鎌倉付近に住居したのは確かだとして、その居住地を比定すると、当時遠藤郷と呼ばれる一角にあった。その藤沢氏は、承久の乱の時、功があって、鎌倉幕府より、伊奈・箕輪六郷の地頭を拝命して信濃に帰った。以後、箕輪六郷を拠点とする藤沢氏が誕生することとなる。・・・神氏としての藤沢氏は、千野氏史料の系図によれば、諏訪社大祝有員を祖とする千野太夫光親の系統ということになる。光親の子親貞(清貞)が藤沢神次を称し、その子が清親で伯父の光弘とともに保元・平治の乱に大祝の代官として出陣し、武功があったと記されている。

相模の藤沢・・・鎌倉時代に、遠藤郷の中にあった藤沢館は、やがて藤沢の宿場として名を残し、宿場の発展とともに藤沢の地名が浸透し、付近を代表して、遠藤郷も包含するようになる。この類型は、秩父渋谷氏が、相模に移住して渋谷の名を残し、更に武蔵江戸に移住し、渋谷の名を残したのと似ている。

弓の名人、藤沢一族
清親は弓の名人として名が高く、幕府の弓矢始めの行事の射手として幾度か命を受けていることが『吾妻鏡』に記載されている。文治より仁治元年(1240)まで五十余年の間将軍家に仕え、初めは次郎清親と呼ばれ、のちには四郎清親と呼ばれたりとある。また、文治三年と建久四年に「弓の会」が開催され、名手としての記録が残り、賞言を賜った」と記されている。五十年の長きにわたっての勤仕は、清親が幕府から厚い信頼を受けていたことを物語っている。

藤沢氏の箕輪進出
藤沢氏が箕輪に進出したのは承久三年(1221)の後であったと推測される。箕輪に藤沢氏が地頭として在ったことを論証する文書として、元享三年(1323)の「諏訪大社下社文書」がある。鎌倉幕府の下知状である。この信政については、「千野姓古系図」に信政という名が見え、清親の六代の孫となっている。・・・下って、南北朝時代の正平十年(1355)八月、宗良親王は諏訪上下社大祝、仁科氏以下の合力を得て、信濃の武家方の頭領の小笠原氏と宮方勢力の挽回をかけて桔梗ケ原において合戦に及んだ。この合戦の宮方に諏訪勢とともに藤沢氏の名がみえる。ついで、室町時代の永享十二年(1440)四月、「結城合戦」に際して幕府は歴戦の武将である信濃守護小笠原政康を陣中奉行に命じて軍兵の指揮をとらせた。政康は信州一国の武士を動員し、これを一番から三十番に分けてそれぞれの陣中の勤番をせしめた。その氏名次第が「結城陣番帳」にみえるが、そのなかの十一番に藤沢氏の名が見えている。・・・さらに下って、長禄元年(1457)の『諏訪御符礼之古書』によると「箕輪 藤沢遠江守 御符礼一貫八百文」とある。これは、藤沢氏が諏訪社の花会の御頭役を勤めたことを示すもので、箕輪に藤沢氏のあったことを実証するものである。また、同文書には文明四年(1472)大井出の藤沢有兼が花会の御頭役を勤めたことが見え、大井出にも藤沢一族がいたことが知られる。

武田軍を迎え撃った福与城祉
戦乱のなかの藤沢氏・・・文明十四年(1482)当時、高遠城とその付近は高遠継宗が支配し、その代官として保科氏が在った。この年、保科氏は領主継宗への勤めを緩怠し継宗の怒りをかった。この高遠氏と保科氏との諍いは合戦に発展し、同年七月、千野・保科・藤沢の連合軍と高遠継宗の軍とが笠原において合戦し、継宗は一敗地にまみれた。 ところが、この戦いはさらに拡大し、八月、保科・藤沢方は松本の小笠原長朝の支援を得て、継宗の属城である山田城を攻めた。『諏訪御符礼之古書』によれば、「府中のしかるべき勢十一騎討死せられ候、藤沢殿三男死し惣じて六騎討死す」とある。戦いは保科・藤沢・小笠原方の敗戦であったことが知られる。この戦の結末は、諏訪一族の男乱に続く。だが以後も箕輪福与に藤沢氏があり、活動していた。・・・戦国時代に入ると、甲斐国の武田晴信(信玄)は西上して天下に号令をしようとし、目的を達するために隣国である信濃に侵攻を開始した。信濃攻略は信虎の頃からで、信虎は幾度か諏訪に侵入したが決定的な勝利は得ていなかった。信虎は天文四年(1535)ごろ、侵略から和睦へと政策転換をはかり、諏訪氏と武田氏との間には平和な時が過ぎた。天文九年、信虎は娘祢々を諏訪頼重に嫁がせ諏訪氏との関係を深めた。・・・信虎は勇猛な武将で甲斐一国の統一を果たしたが、内政的には粗暴な面が目立ち、次第に人心が離れつつあった。そして、信虎の横暴を嫌った重臣と長男晴信らがクーデタ企て、信虎は駿河の今川氏のもとへ逐われた。これにより、いままで平和を維持していた諏訪氏と武田氏との関係は一変した。一方諏訪氏では、一族で高遠城主の高遠頼継が諏訪の惣領職を狙って諏訪頼重と対立していた。諏訪攻略を目指していた武田晴信は、高遠頼継の野望を利用して一挙に諏訪を攻め落とそうと策をめぐらした。
 天文十一年(1542)七月、晴信は高遠頼継と図って諏訪頼重を上原城に攻めてこれを落とし、さらに桑原城に逃れたた頼重を攻めて降した。晴信は頼重を甲斐に連れ帰り幽閉し、ついには自刃せしめた。ここに、諏訪氏の嫡流は滅亡し、その後の諏訪は高遠氏と武田氏が二分した。しかし、高遠頼継はこれが不満で、兵を起こし武田軍を追い払い諏訪全土を領有するに至った。これに対して晴信は高遠頼継およびこれに加担する矢島晴満の軍を諏訪宮川に攻めて破り、諏訪はまったく武田氏の掌中に帰した。

武田氏との抗争
諏訪を領有した晴信は、西上の志をいよいよ強くし、その通路にあたる伊那谷の攻略に着手した。天文十一年(1542)九月、晴信の部将駒井高白斉は伊那口に侵入、藤沢口に放火しこれを攻めた。さらに晴信は板垣信形に命じて上伊那口に兵を発し、高白斉とともに上伊那諸豪族への示威運動を繰り返した。・・・天文十三年、晴信は本格的に伊那郡攻略に着手、十一月に甲斐府中を出陣した。一方、武田軍の侵攻に対して藤沢頼親は箕輪の北方平出の荒神山に砦を構え、伊那衆とともにこれを守り武田勢を迎え撃った。武田勢は武田信繁を大将として有賀峠を越えて伊那郡に入ると、荒神山を攻め破った。このとき、晴信は下諏訪に陣していたが、藤沢氏に決定的な打撃を与えないまま甲府に軍を帰している。・・・翌年、晴信は再び兵を率いて甲府を出陣し、伊那攻略に向かった。まず高遠頼継を攻め、これを落とした。ついで箕輪に軍を進め、藤沢頼親の居城箕輪城を攻めた。これに対し、箕輪城には藤沢氏に同心し、武田の伊那侵攻を阻止せんとする伊那の諸豪族が籠城していた。この守備は固く、武田方の攻撃も思い通りに進まず、部将の鎌田長門守が討死するほどであった。・・・これより先、松本の小笠原長時は藤沢頼親を支援しようとして龍ケ崎に陣を布いた。また長時の弟信定も下伊那・上伊那の諸豪族を率いて、藤沢氏を支援するため伊那部に着陣した。このように藤沢方は優勢で、城の守備も固く膠着状態が続いた。対する晴信は攻囲戦が長期にわたり、軍兵の疲労もあり藤沢氏との和を講じた。そして、その誓約として頼親の弟権次郎を人質として差し出させた。ところが、藤沢氏らが開城したと同時に箕輪城へ火を放ってこれを焼き払ってしまった。下伊那から来た小笠原信定も、府中の小笠原長時も、箕輪城の開城により一戦も交えず兵を引き揚げた。こうして、和議とはいいながら箕輪城を焼かれた頼親は、実質上、敗北を喫して晴信に降った。・・・箕輪城落城後、頼親は小笠原長時に随って京都に上り、三好長慶のもとに身を寄せていたが、三好氏が滅びるにおよび伊那に帰り田中城を築いてこれに拠った。

藤沢氏の滅亡
その後、天正元年(1573)に武田信玄が病死し、そして天正十年、武田氏は織田信長の前に滅亡した。その信長も天正十年六月、本能寺の変に横死するなど、戦国時代は大きく様相を変えていった。信長の死後、信州の旧諸将は旧領に帰還し本領の回復を図った。このとき、藤沢頼親も福与城を再興したと『赤羽記』にみえる。・・・七月には、小笠原貞慶が松本を回復せんと三河国より伊那郡に入った。これに藤沢氏の人数も加わり、十六日に貞慶は松本城に入った。一方、保科正直は高遠城を奪ってこれに拠り、九月、酒井忠次を取次として家康の旗下に属そうとした。そして、藤沢頼親にも向背を共にせんと勧めたが、頼親はこれに応じなかった。結果、天正十年(1582)頼親は徳川氏の先鋒となった保科氏に城を攻められ、落城、藤沢氏は滅亡した。』

検討材料 ・・・

先代・諏訪頼継が、相模次郎(=北条時行)とともに、大徳王寺の戦いに敗れ、幕府側から大祝を追われ、諏訪大社の神領の神野をさまよった時、幕府側(恐らく小笠原家)から傀儡の上社大祝が就いた。この時選ばれたのが、諏訪神家の庶家・藤沢家と言われる。やがて、傀儡の大祝の評判は芳しくなく、退位させられて、頼継の弟・信継が大祝になったという。

この真偽は、資料が乏しく断定までには至らないが、これを契機にして、藤沢家と府中小笠原家の関係が成立したと言われる。それと、同時平行して、藤沢家の諏訪神族としての立脚する意識は薄らぎ甲斐武田が強固になると、諏訪神族としてよりも、小笠原家との姻戚を優先し、小笠原家と命運をともにするような行動を採るようになる。

 


下条家 伊那谷の小笠原家庶流

2014-03-06 01:25:58 | 歴史

下条氏

 三階菱に梶の葉 (清和源氏小笠原氏流)

吉岡城

  吉岡城跡地

概容:

所在地: 長野県下伊那郡下條村陽皐(ヒサワ)7094-1
遺 構: 曲輪、空堀
形 式: 平山城
築城者: 下條康氏
築城年代: 文明7年

吉岡城・・・吉岡城は、北の沢川と南の沢川に挟まれた台地上に築かれた城だ。 現在、主郭部が吉岡城趾公園となっている。

吉岡城は、台地の西から二つの出郭・主郭・二の郭と曲輪が配置された連郭式縄張りで、曲輪がそれぞれ空堀によって防御されている。・・・ 城の遺構は、主郭部の半分が国道の切り通しとなってしまっているが、主郭虎口部の空堀と主郭背後の出郭との間にある空堀がよく残っていた。 また、二の門外が城下町で枡形の跡や上町・屋敷町・大手・大手裏・竪町・横町等の地名が残っている。

歴史・・・吉岡城は、文明七年に下條康氏によって築城され、以後七代112年間下條氏の本拠地となった城である。・・・下條氏は、甲斐源氏武田氏の庶流で、小笠原氏の庶流と認めていいか分からないが、六代康氏が小笠原政康の子で文明二年に下條家を継ぎ、居城を大沢から吉岡に移した。・・・九代信氏は、武田信玄の妹を妻に迎え信玄の伊那先方衆として武功をたてたが、天正十年の織田信長の信濃攻略に際して、家老の謀反にあい三河に逃れたが、彼の地に没した。・・・下條頼安(信氏の次男)が、天正十年の本能寺の変後に徳川家康の助勢を得て吉岡城を奪回した。しかし、天正十二年に松尾城で謀殺され、天正十五年に下條氏は改易となった。その後、吉岡城は代官所等にあてられていたが、寛永年間に旗本知久氏によって取り壊された。 

 

出自に関して・・・

以下、「戦国 武家家伝下条氏」からの引用による ・・・『 』の部分

『伊賀良荘は、のちに下条郷と呼ばれるようになり、下条氏が来住し、富草の古城に居住するようになった頃は不詳。この伊賀良荘は、南北朝期に足利尊氏に属した小笠原氏が地頭職を有し、有力な地頭代が領内を統治していた。・・・しかし、下条郷と小笠原氏の関係を物語る史料は知られていない。下条氏が甲斐国から来て、下条郷に居住し、小笠原氏との関係は次第に濃くなった。

下条氏の出自
下条氏が下条郷に来住した時期は不詳、さらに出自についてもまた不詳。しかし、その本拠が甲斐国下条の地であることは間違いないと考えられている。
甲斐源氏武田氏系図によれば、武田刑部大輔信成の子に、陸奥守信春がおり、その弟に下条五郎武春があって、武春が武田系図における下条氏の初見である。また、円光院本武田系図に、信春の子信満を満信とし、その弟伊豆守信継に下条殿と注記している。多少の相違があるものの、下条氏が室町時代の初期、武田氏の一支族が甲斐国下条の地に分居して、下条氏を称したことは間違いないようだ。
そして、伊豆守信継は下伊那に来住した下条伊豆守頼氏と同一人物ではないかと推定されるが、その確証はない。

『下条由来記』によれば、「甲斐国下条等国乱レルニ依リ、武田之門葉流来ル」とし、下条氏が甲斐武田氏の支族を記し、初め大沢の地に居を定めてこれに住した、とする。そして、最初に来たのが下条伊豆守頼氏で、伊賀良荘が下条と呼称されたのは、下条頼氏来住による、というのである。伊那郡下条氏の祖は伊豆守頼氏といい、それは「下条記」には応永元年(1394)の春ということになる。

どうやら、下条家は最初から小笠原一族では無いようである。それが、婚姻を重ねて、次第に小笠原一族と同等になったようである。家紋を見れば、諏訪神族との関係を想像させるが、その関係性の痕跡は見つかっていない。

信濃に地歩を確立する
応永七年(1400)七月、小笠原長秀が信濃守護に補任され、伊那衆と呼ばれる伊那郡の諸豪族を率いて善光寺入りをせんとした。しかし、北信濃の国人領主たちは小笠原氏の守護補任を喜ばず、小笠原氏と北信国人連合は対立し、ついに合戦へと発展した。「大塔合戦」である。この時の守護勢の中核は伊那衆であり、北信濃の豪族村上氏を盟主とした反守護勢と戦った。戦いは守護小笠原方に利あらず、伊那衆が苦戦に陥り、伊那衆は、反守護方に破られて悲惨な形で終焉した。
大塔合戦は守護小笠原氏の大敗北となり、長秀は悄然として京都に逃げ帰った。このとき守護方の伊那衆のなかに、下条伊豆守・同美作守の名が見える。この伊豆守は伊那郡に初めて来住した下条伊豆守頼氏と比定されるが明らかではない。
・・・累歴は、下条氏は頼氏が初めて大沢の地に居住して居館に永住し、頼氏死去のあとは子景氏が同じ伊豆守を称してその跡を継いだ。景氏が仏門に入ってので子の義氏が家督を継いだが幼少であり、景氏の室が当主を代行した。義氏も早世したため、景氏の弟で義氏の叔父にあたる開眼寺の住職であった運碩が還俗して下条家を継ぎ、大沢城主となった。・・・運碩が家を継ぐまでの下条氏は、出家、早世が続き、家運は振るわなかった。運碩が入って下条をよく固めたことにより威勢を取り戻すに至った。運碩にも子がなかったので、小笠原政康の子康氏が入って下条家を継いだという。・・・小笠原氏は信濃守護であり、この小笠原家の康氏が跡を継いだことは、以後の下条氏の勢力伸長と社会的地位の向上に大きく寄与した。また、この養子から、下条・小笠原両家がともに甲斐源氏の一族同士として、交渉があったことをうかがわせる。さらに、小笠原氏が養子を送り込むほどに、当時の下条氏が相当な勢力基盤を築いていたこともうかがわせる。・・・下条氏を継承した康氏は、文明二年(1470)、天然の要害ではあっても地形があまりに狭小な大沢から富山に城を築いてこれに移った。以後下条氏は吉岡城を拠点として領内の地理的環境をよく活用して、生産経済的基盤の確立に努めた。下条氏の勢力は次第に強大となり、戦国時代の天文年間(1532-54)に、南接の関氏の所領をも併せて、一時は下伊那地域最大の大身に成長するに至るのである。

小笠原氏の有力麾下として活動
永享十二年(1440)鎌倉公方足利持氏の遺児を擁して結城氏朝が幕府に叛旗を翻した「結城合戦」と呼ばれるこの戦に、信濃守護小笠原政康は幕府の命を受けて出陣した。信濃の諸豪も小笠原氏の軍下で結城城攻囲戦に加わった。・・・『結城御陣番帳』によれば、その二十番に「下条殿」とあり、つづいて同下野守殿、同山田河内殿、さらに二十二番に下条将監殿が見える。下条一族が守護小笠原政康に従って関東に出陣したことが知られる。さらに下条氏が番を形成する勢力であったことがうかがえる。*番・・およそ百騎で構成された。・・・幕府権力は磐石になったと思われたが、嘉吉の乱で将軍義教が殺害されると、以後幕府は動揺を続け、次第に権威を失い、応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が起った。乱は京にとどまらず全国に拡大し、確実に戦国時代に移行していった。・・・応仁・文明の乱が吹き荒れる文明五年(1473)、小笠原家長は幕府の命を受けて、美濃国土岐氏の大井・荻島の両城を陥れた。将軍足利義政はこの戦功に対して、家長および小笠原一族、被官中に対して感状を与えてその戦功を賞した。その対象者に、小笠原治部少輔殿、同左馬助殿と並んで「小笠原下条伊豆守殿」がみえる。下条氏が小笠原氏の有力麾下を示したものである。・・・小笠原氏は、政康死後の家督相続で小笠原家は三家に鼎立していた。守護家で鈴岡城主の政秀、政康の孫家長の松尾小笠原家、そして持長の孫で林城に拠る長朝の府中小笠原家というように、小笠原一族は三つ巴となって抗争を続けたのである。鈴岡は宗康の子政秀が居住し、吉岡の康氏は小笠原政秀と緊密な関係を保った。・・・この小笠原氏の分立は、明応二年(1493)、政秀が家長の嫡男定基に謀殺され、定基は府中の長朝の孫長棟に敗れて蓄電したことで、府中小笠原氏によって統一されたのである。世は群雄が乱れ撃つ戦国時代の様相を深めていた。

武田信玄の信濃侵攻
十六世紀になると、信濃の隣国甲斐では武田信虎が国内を統一し、その鋭峰を信濃国に向けてきた。さらに、家督を継いだ武田信玄(晴信)は西上の野望を抱き、伊那郡に着目し、この地を西上の兵站基地にすることを目論んだ。・・・天文十四年(1542)信玄は、諏訪頼重の上原城を陥れ、頼重を甲斐で自刃させて諏訪氏を滅ぼした。ついで伊那郡北部に兵を入れて、高遠城を攻撃して高遠氏を逐い、さらに、福与城の藤沢氏を降参せしめた。以後も、信玄の侵攻は伊那郡に向けられた。
・・・天文十七年(1545)四月、信玄は上伊那に侵攻し、再び藤沢氏の居城を攻めた。このとき、下条氏をはじめ片切・大島・座光寺・知久・保科氏らの伊那衆二千余人は、藤沢氏を後援するため小笠原長時を将として武田軍と戦った。しかし勝敗は決せず両軍ともに兵を退くに至った。・・・その後、藤沢氏は武田軍に降り、武田氏の侵攻は続いた。武田氏は府中・小笠原氏に兵を向け、両者は塩尻峠で戦ったが、小笠原氏は敗れて総崩れととなり、林城に逃げ帰った。その林城も武田氏の攻撃で落ち、十九年(1547)、小笠原長時は城を捨てて村上氏を頼り逃避してしまった。、天文二十三年(1551)七月、信玄は大挙下伊那郡に侵攻、伊那郡の諸豪は信玄の軍門に降った。抵抗したのは知久頼元で、最後は捕らえられ誅殺されるに至った。下伊那は武田氏の支配下に入った。・・・下条氏も武田氏の軍門に降り、以後、武田氏の麾下に属する。信玄は西上に対して伊那郡の重要性を認識し、下条郷に注目した。そこで、下条信氏の室に自分の妹を嫁がせ、信玄は信氏を義弟として遇した。信氏もこれに応えて武田方として三河方面に出兵し、信玄の西上を有利にすることに努め、信玄から感状を賜っている。以降、信氏は信玄から命で三河方面の警戒にあたった。・・・元亀三年十月、信玄は西上の軍を発した。しかし、その途上で信玄は病死する。武田氏の家督は勝頼が継いだが、天正三年(1575)、織田・徳川連合軍と三河長篠で戦い、敗北を喫した。以後、武田氏の威勢は下り坂を転がっていくこことなる。』

もともと、武田と同族であり信玄の妹の嫁ぎ先になった下条家は、徳川・織田の防衛戦線を担い、かつ三河進出の橋頭堡の地理的条件の役割があった。信玄の三河侵攻では、勝ち取った奥三河の足助城の城代を勤めている。さらに徳川との交渉の、”取次”の役割もになっている。織田・徳川の連合が、桶狭間で今川に勝利すると、駿河に於ける徳川と武田に境界線の協定に、下条信氏は役割を果たしている。このとき徳川側の”取次”役は、東三河の旗振りの酒井忠次であった。織田信長が本能寺で殺害されて以降、信濃の諸豪族が徳川家に臣下していく時、そのほとんどが、酒井忠次の”取次”でなされた、と聞く。

『時代の変転
天正十年二月、織田信長は武田氏を覆滅せんと軍を発した。伊那口には信長の嫡子信忠が進攻してきた。これに対し、勝頼は下条信氏を防御に当たらせた。信氏は寡兵をもって織田軍の攻撃をよく防いだが、一族の九兵衛氏長が織田方に内通するに至り、ついに陣地を捨てて逃れ去った。以後、伊那における武田方の抵抗は途絶え、織田軍は松尾城の小笠原信嶺を降し、さらに飯田城の坂西織部・保科正直らを逐った。・・・ついで、織田軍は高遠城を守る仁科信盛を討ち破り、武田氏の勢力は伊那谷から潰えてしまった。そして、諏訪を経て甲斐になだれ込み、武田勝頼一族を天目山麓田野に追い詰めて勝頼を討った。ここに、甲斐源氏嫡流を誇り、甲斐国守護として永く勢力を振るった武田氏は滅亡した。・・・下条氏長は、織田氏によって下条氏の旧領を安堵されていたが、信長が本能寺で横死すると、氏長の立場は不安定なものとなった。氏長から人心は離れ、旧臣らは信氏の子で信正の弟にあたる頼安をたて氏長を除かんとした。これに、徳川家康も同調し、氏長は殺害されて、頼安が下条氏の家督を継承したのである。・・・以後、下条氏は徳川氏の麾下に属して信濃の反徳川勢力の進展を阻止することに活動した。この頼安の忠勤に対して家康は褒賞している。頼安は徳川氏に従属して下条氏の家名をよく存続せしめ、家康から伊那郡において松尾の小笠原信嶺と、知久郷の知久頼氏の所領を除く地域を与えられ、下伊那における下条氏の統制力を強化することになり、下条氏は伊那郡の大半を領有し、南信濃に一勢力を築き上げるにいたった。

下条氏の没落
頼安の死後、甥の信正の嫡子が家康から一字を貰って「康長」として継いだ。しかし、生じた重臣間の不和は治まらず、下条氏崩壊へと事態は動いていく。天正十三年八月、家康は真田昌幸征伐のため出陣したときに起こった。この上田の陣で、下条氏は陣小屋を焼失するという大失態をおかした。康長はすぐ家康に陳謝したため、特別に許された。・・・騒動は一件落着したと思われたが、失火の因を作った佐々木新左衛門は、事を構え家康に讒訴したのである。家康はあらためて康長の重臣らを駿府に召し出し尋問吟味した。老臣らは窮地に陥り下条へ逃げ帰ってしまった。・・・翌十五年三月、康長は徳川氏から飯田城に招致され拘禁されるに至った。その後、康長は飯田城から逃れて隠棲し、下条氏は没落した。』


 


坂西家 伊那谷の小笠原家庶流

2014-03-05 14:19:57 | 歴史

坂西氏

 坂西家家紋 丸の内松皮 (清和源氏小笠原氏流)

以下、「戦国 武家家伝坂西氏」からの引用による ・・・


 『坂西氏は『笠系大成』によれば、南北朝初期の信濃守護小笠原貞宗の三男宗満が信濃国飯田郷の地頭職を賜り、飯田郷三本杉に居館を構え、坂西孫六を称したことに始まるという。すなわち、清和源氏小笠原氏の一族ということになる。・・・初代の宗満は正中年中(1324)に生まれ、貞和年中(1345)ごろ三本杉に住し、永和二年(1376)に死去したという。宗満は坂西を称したのは、既に飯田郷に存在していない坂西氏の名跡を継いだとする説もあるが、その真偽は定かではない。・・・ところで、坂西氏には二つの流れがあったとされ、伊那郡の坂西氏は「ばんざい」とよみ、松本の坂西氏は「さかにし」とよんだ。・・・伊那郡の坂西氏の伝説によれば、源平合戦のころの淡路国坂西(万歳)城主に近藤六郎周家なる人物がいて源義経に属したが、義経が頼朝から追討の身となり奥州に逃れたときそれに従ったものの越後国で暇を出され、周家は信濃飯田郷に来住、そして、飯田郷を支配下におさめ、故地坂西にちなんで坂西を称したのだという。』 あるいは、義経が、源平合戦の時、西国四国に行き、道案内をしたのが近藤六郎周家なる人物で、功績で郊戸荘(=飯田)の地頭を賜ったともいう。どちらも定かではないが、名跡坂西家の存在はたしかであったらしい。

『坂西氏の登場

室町の初めの頃、小笠原一族である坂西氏が飯田郷に入ったものと考えられる。由政が出家入道したのちは嫡子の長由が家督を継いだが早世したため、嫡孫の政忠が次男長国の後見を得て坂西氏を継いだ。・・・応永七年(1400)大内義弘の乱に活躍した小笠原長秀が信濃守護に補任され、長秀は岩村田の大井氏の館を経て善光寺の守護所に入り、政務を執るようになった。しかし、長秀の政治姿勢に対し、国人たちは領主権が侵害されることを恐れて、村上満信を盟主として一揆を組み、守護長秀に対抗しようとした。・・・村上満信を盟主とする一揆勢は九月三日ついに武力蜂起した。一揆勢と守護小笠原勢は川中島の篠の井付近で双方睨み合い、合戦は二十五日に始まった。守護方の旗本衆は曼陀羅一揆と称して勇敢に戦った。なかでも嗣子奮迅の戦いぶりを見せたのが、坂西次郎長国であった。長国は六尺三寸に余る太刀を振るって勇戦したが、多勢に無勢、ついに守護勢は塩崎城に逃れて籠城せんとした。ところが、長国たちは守護長秀との連絡を絶たれ、大塔の古砦に逃げ込んだ。・・・大塔には兵糧もなく籠城兵は馬を殺して食糧にする事態の追い込まれ、ついに十月二十一日、守護勢のほとんどが討死・自害するなどして果てた。猛将長国も自害し、二十一歳の若さで戦場の露となったのである。大塔の落城により塩崎城も危うくなったが、小笠原一門の大井光矩の斡旋で開城となり、長秀は京都へ逃げ帰った。当然、守護職は解任されたことはいうまでもない。・・・長国が討死したのちは、由政入道正永が家政をみて本拠を愛宕社へ移し飯田城と称した。入道正永が正長元年(1428)に死去すると政忠が名実ともに家督を継承し宗家小笠原氏に属して、永享十二年(1440)の「結城合戦」に小笠原政康に従って出陣した。

信濃の戦乱

小笠原政康が嘉吉二年(1442)に死去すると、政康の嫡子で政康のあとを継いだ宗康と府中小笠原持長との間で家督争いが起った。・・・文安三年(1446)宗康と持長は漆田原で合戦におよんだ。戦いは激戦となり一日の間に合戦七回、数に劣る持長勢が最後の激突において宗康を討ち取り守護方の敗戦に終わった。この合戦に坂西政忠・同上総介兄弟は持長勢に属して奮戦、上総介は討死をした。その後も、小笠原氏の同族争いはやむことがなく続き、文明十一年(1479)、同十二年の両年、小笠原政貞(政秀)と松尾小笠原家長が合戦、家長は討ち取られた。この合戦に、坂西正俊は政貞の軍に加わっていた。・・・正俊の子政之の代の天文十五年(1546)、知久頼元と領地争いを起こし、政之は敗北し、松尾小笠原信定、下条信氏の扱いで和睦、知久氏に黒田・南条・飯沼・上野の地を割譲し、さらに知久氏の娘を嫡子長重の室に迎えている。・・・天文年間になると、隣国甲斐の戦国大名武田氏が信濃に兵を進めるようになり、小笠原長時・村上義清らを信濃から逐い落し、信濃をほぼ制圧したのである。天文二十三年、武田氏は下伊那を制圧、ここにいたって坂西政之は武田氏に帰属し、秋山伯耆守の組下となり軍役六十騎を勤めた。政之の死後は嫡子長重が早世していたため、孫の長忠が継いだ。長忠は永禄五年(1562)松尾小笠原信貴の領地を押領したため、信貴によって信玄に訴えられた。結果、坂西長忠は武田軍と松尾小笠原軍に攻められ、多勢に無勢で城を脱出して木曽に逃れようとしたが松尾勢に捕捉され坂西一族はことごとく討死をとげた。
その後、天正元年(1573)小田原北条氏の斡旋を受けて坂西織部経定なる人物が飯田城を賜り、武田氏の軍役に従い、長篠の合戦にも出陣している。そして、天正十年の織田勢の侵攻によって織部は城を棄てて西山へ逃れたが、進退に窮し自害、坂西氏はまったく滅亡した。この織部の名は小笠原系坂西氏の系譜にはみえず、近藤氏系坂西氏の最後の当主とするものがある。』

坂西孫六のこと・・・

諏訪家と同盟した、松尾小笠原家の系流の坂西家の話です。

諏訪の乱を見る時、大祝諏訪満継や高遠継宗に援軍する伊那の軍に、”孫六”の人名を見かける。大祝援軍で、諏訪に出征で来るだけでなく、諏訪の方からも、松尾と鈴岡の小笠原家内の対立の時、あるいは府中小笠原家が伊那の小笠原家に攻めてくる時は、高遠継宗や諏訪満継は、自ら松尾小笠原家に援軍している。この際に、諏訪上社の敬虔な信者として”孫六”は登場する。・・守矢文書。この孫六は、時には小笠原孫六を名乗るが、飯田城主坂西孫六である。通称を外せば、五代坂西政重か坂西正俊が年代的に該当できる。

この坂西家のことについては、書籍では皆無に近いようで見当たらない。南信濃の中世の豪族の、規模的順位からすれば、松尾小笠原、鈴岡小笠原、知久家に次ぐ、四番目の規模だったようだが、飯田郷・・効戸庄に、1300年代中頃から、1500年代中頃まで約200年に渡って君臨した領主である。・・・坂西家の名が、歴史に露出するのは、大塔合戦、結城陣番帳、小笠原・諏訪の文明の内訌、知久・坂西争い、織田の武田攻め・飯田城の戦いで、・・・ほぼ負け戦ばかり、地元の郷土史家に、興味が湧かなかったのだろうか。

以下、飯田坂西家の系譜略・・・参考

小笠原貞宗
正応五年4月12日-正平二年/貞和3年5月26日(1292・4・30-1347・7・5)
南北朝初期の守護・貞宗は鎌倉時代後期から室町前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃国松尾(飯田市)に生まれる。

当初は鎌倉幕府に仕えており、元弘元年(1331)からの元弘の乱では足利尊氏らとともに後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧した。しかし高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、鎌倉攻めに参加。建武元年(1334)、この功績により信濃国の守護に任ぜられた。その後、尊氏が後醍醐天皇から離反するとこれに従った。建武3年(1336)には足利方の入京により後醍醐天皇が比叡山へ逃れる。この際、貞宗は後醍醐方の兵糧を絶つ目的で琵琶湖の湖上封鎖を行っている。その後も一貫して北朝側の武将として各地を転戦した。京都で死去。56歳没。子の政長が家督を相続した。

三男宗満、分家して坂西を名乗る、坂西宗満。

初代
坂西宗満;正中元年-永和二年(1324.4.8-1376):53歳:法名賢戒
父小笠原貞宗。三男。貞和年中(1345)ごろ三本杉に住し、飯田郷の地頭職を賜り、貞和年間(1345-50年)頃に飯田郷三本杉に居館を構え、坂西氏の名跡を継いで坂西孫六を称したという。松尾に生れ 建武2年(1335)郊戸の庄へ分家し 貞和年中に城を築き 永和二年(1376)在京中卒す。

・・坂西氏の名跡を継いで坂西孫六を称したという。・・三本杉城・・・野底川と松川の合流地点、新飯田橋となり西鼎公園のところか。・・・郊戸の庄・・・郊戸八幡宮由緒・・貞観年中に勧請す・・久安三年郊戸庄五郷の總鎮守・・社号につきては旧称郊戸八幡宮・・天保十二年郊戸神社と改称す・・・場所の比定は、前文の神社の場所が含まれるところ。野底川と松川の間の旧飯田郷とする。この頃はまだ領地の分割相続があった。・・・孫六は松尾小笠原家の別家屋号か、それとも嫡男に名付ける幼名か。

二代
坂西由政;康永二年-正長元年(1343.5-1428.3.26):86歳:法名正永寺殿堅峰 道因大居士
出家した後、入道正永を名乗る。宗満の長男;母武田佐馬介直信女、稚名孫六郎、別名兵庫守、度々武功あり、応永十五年(1408)入道して正永と号し、由政が、愛宕城(飯田市愛宕町)を築いて本拠を移した。由政が出家入道したのちは嫡子の長由が家督を継いだ。・・愛宕城は飯坂城ともいい、飯田城本丸跡から西に近く愛宕稲荷神社があり、この場所に小さな愛宕城があった。

三代
坂西長由;応安三年-応永二年五月(1370-1395.5):法名長圓、27歳。
由政の長男、母家の女房 稚名は彦太郎、松原城に生まる。・・・松原城は、郊戸庄飯田郷の内にあると思われるが、比定できていない。今宮城のことか
・坂西長国・・由政の次男、康歴2年-応永7年(1380.8.2-1400.10.17 ):21歳:法名曹源。
・・・大塔の戦いで 大塔城に籠り家臣宮崎と共に自害する。・・応永7年(1400)小笠原長秀に随ひ更科郡所々にて合戦して武功顕し、守護方の旗本衆は曼陀羅一揆と称して勇敢に戦った。なかでも獅子奮迅の戦いぶりを見せたのが、坂西次郎長国であった。長国は六尺三寸に余る太刀を振るって勇戦したが、多勢に無勢、ついに守護勢は塩崎城に逃れて籠城せんとした。ところが、長国たちは守護長秀との連絡を絶たれ、大塔の古砦に逃げ込んだ。大塔には兵糧もなく籠城兵は馬を殺して食糧にする事態の追い込まれ、ついに10月21日、守護勢のほとんどが討死・自害するなどして果てた。猛将長国も自害し、21歳の若さで戦場の露となったのである。大塔の落城により塩崎城も危うくなったが、小笠原一門の大井光矩の斡旋で開城となり、長秀は京都へ逃げ帰った。当然、守護職は解任されたことはいうまでもない。・・長国が討死した後、由政が家政をみて本拠を愛宕社へ移し飯田城と称した。そして由政が出家入道すると、家督を継いだ長男の坂西長由によって飯田城が築かれたという。飯田城ができる以前、この場所には真言宗山伏(修験者)の修行所があったが展望のきく要害の地であったため、坂西氏がそれまの愛宕城の土地と交換して築城した。このため、坂西氏時代の飯田城の主郭部は、近世飯田城では「山伏丸」と呼ばれた。・・・鎌倉時代の建保年間(1213-19年)に築城したという説もあるが、年代的に無理?。・・・長由は早死にだったため、長男の政忠が叔父のの長国の後見を得て坂西氏を継いだ。

四代
坂西政忠;明徳四年五月-寛正五年六月十五日(1395.5-1464.6.15):72歳:法名圓岳:長由の長男、稚名小太郎。
政忠が叔父の長国の後見を得て坂西氏を継いだ。入道正永が正長元年(1428)に死去すると政忠が名実ともに家督を継承し宗家小笠原氏に属して、永享十二年(1440)の「結城合戦」に小笠原政康に従って出陣した。・・・漆田原の戦とは、室町時代に起きた信濃守護家の後継をめぐる内紛である。信濃守護松尾小笠原宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死の際は家督を譲り渡す条件で協力の取り決めをして漆田原での府中小笠原持長軍との合戦に臨んだが敗死。持長は宗康を討取りはしたものの家督を手中にすることが出来ず対立は子らの代にまで続いた。この合戦に坂西政忠・同上総介兄弟は府中小笠原持長勢に属して奮戦、上総介は討死をした。・・?松尾小笠原別家の坂西家が府中小笠原家の側に立ったのか、不明で矛盾・検討材料?・・坂西上總介、長国の次男、文明二年(1470)善光寺大黒塚合戦に討死す

五代
坂西政重;応永三十年-文明十四年(1424.7.11-1484.10):60歳:法名道圓
:政忠の長男・稚名孫六
永享十二年(1440)結城合戦の時信濃守護小笠原政康に属し武功あり。政重の長男・康雄。次男・正仍。・・坂西正仍・詳細不明。

・坂西正俊 正仍の子。
・・伊那郡飯田城主。知久氏の二万石の覇権を争った。・・文明十一年(1479)、同十二年(1480)の両年、鈴岡小笠原政貞(政秀)と松尾小笠原家長が合戦、家長は討ち取られた。この合戦に坂西正俊は鈴岡の政貞の軍に加わっていた。・・守矢文書にある”孫六”は年代を比定するとこの人になる。孫六は諏訪上社に帰依し、諏訪に内訌に高遠家、諏訪大祝家の側で活躍し、伊那郡援軍の要と見える。さらに小笠原の松尾・鈴岡の内訌にも関与し、諏訪からは、高遠継宗と諏訪満継が松尾の援軍に伊那に駆けつけている。どうも、キーマンが”孫六”こと坂西正俊!か。・・・坂西康雄、坂西正仍、その子坂西正俊の代に、小笠原家と諏訪家の両方に一族間の争乱が起こった。この三人は三人ともこの争乱に深く関わっていて、康雄、正仍は巻き込まれて戦死したのだろうか、資料に顔を出さない。この為か、この時期の系譜に混乱が見られる。

坂西家の嫡男を示す、由緒ある幼名(稚名)の”孫六”は、初代、二代、五代、、と坂西正俊の四名が確認され、以後この幼名はつけられていない。

六代
坂西政之;寛正3年?-弘治2年(1462.2?-1556):95?歳:法名長松寺、
坂西正俊の男(政重の長男説疑問有り)。天文年中愛宕の寺の山城方へ移す。
正俊の子政之の代の天文十五年(1546)、知久頼元と領地争いを起こし、政之は敗北し、小笠原信定、下条信氏の扱いで和睦、知久氏に黒田・南条・飯沼・上野の地を割譲し、さらに知久氏の娘を嫡子長重の室に迎えている。・・天文二十三年、武田氏は下伊那を制圧、ここにいたって坂西政之は武田氏に帰属し、秋山伯耆守信友の組下となり軍役六十騎を勤めた

七代
坂西長重;大永元年-永禄3年(1521-1560):40歳:法名長光、
政之の長男;母小笠原左馬介女、飯田城で生まれる。舎兄多と雖も皆早世す。父老年に及び家督方継ぎ神峰城主知久頼元の聟。室は知久頼元の娘。若く病没のため、坂西家の家督は嫡男坂西忠長が相続した。

八代
坂西長忠;天文7年-永禄5年(1538.5.28-1562.6.12):25歳 
長重の長男;飯田城に生まれ、市瀬山にて自害。父坂西長重が若くして病死したため、坂西長忠が家督を相続した。。長忠は永禄五年(1562)松尾小笠原信貴の領地を押領したため、信貴が信玄に訴えた。結果、坂西長忠は武田晴信勢と松尾小笠原信貴勢に攻められて飯田城は落城、木曾谷に落延びる途中、松尾小笠原信貴勢に捕捉され坂西家枝連衆はことごとく討死をとげた。長忠は・・正之の孫の説もあるが不明。

九代
坂西延千代;永禄4-5年、2歳
父長忠討死の時、一緒に卒す。長忠の長男・・・・・坂西家断絶・・・

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別流か・・・・・
坂西経定;生誕不詳-没年天正10年(1582)
坂西家臣。通称織部。天正元年(1573)小田原北条氏の斡旋を受けて坂西織部経定なる人物が飯田城を賜り、武田氏の軍役に従い、長篠の合戦にも出陣している。そして、天正十年の織田勢の飯田城侵攻によって織部は城を棄てて西山へ逃れたが、進退に窮し自害、坂西氏はまったく滅亡した。この織部の名は小笠原系坂西氏の系譜にはみえない。
近藤氏系坂西氏の最後の当主とするものがあるが、少し検討する。


・・・郊戸の地頭・近藤六親の系譜の坂西家は、小笠原貞宗の時に貞宗に臣下し、貞宗が府中に守護として赴任する時に重臣として随行して、郊戸を引き払い府中に居を移した、と考えるのが妥当ではないかと思われます。郊戸の地頭で名跡であった坂西家を、貞宗の三男・宗満が継承して”バンザイ”を名乗り、府中に行った坂西氏は”サカニシ”を名乗った。

・・・この府中にあった坂西家の系譜の末流に、長忠の時断絶した坂西家を、政治的に継承させたと言う説は、可能性としては少ないがあると思う。

 

参考・・・小笠原文書

板西宗満近藤周家裔小笠原貞宗子孫六彦三郎掃部刑部弾正
由政宗満子兵庫
長由由政子伊予
政忠長由子伊予
政重政忠子内蔵
康維政重子康雄
政仭政重子正仍
政俊政仭子伊予
政之政俊子政重子?伊予?
長重政之子若狭
長忠====1562長重子左衛門周次飯沼城主
---------
織部長重子?疑問

長国由政子次郎応永頃
頼国

正永寺・・・坂西家菩提寺 ・参考

飯田城主2代 坂西由政( よしまさ)が応永15年(約600年前)66歳の時に、正永寺殿賢峰道因大居士と号して入道し、風越山の麓、圜悟沢付近に庵を結んで閑居したのが始まりで、その後、正永寺原に一寺を建立し「正永寺」と称しました。 この地は虚空蔵山の麓に広がる高台で、正永寺の旧境内地には大公孫樹(長野県の天然記念物)、坂西家のものと思われる宝匡印塔・五輪塔が現存しています。
永禄5年、坂西長忠の時、松尾の小笠原信貴との戦に敗れ、木曾谷へ落延びる途中、勝負平の一戦で坂西家が滅亡しました。この時正永寺も一時荒廃してしまいます。
文禄3年 正永寺洞翁深鶴大和尚の時、飯田城主京極高知は外堀の内側に寺を配する事とし、命によって正永寺原より現在の地に移転しました。

 

 


溝口家 伊那谷の小笠原家庶流

2014-03-04 21:31:02 | 歴史

溝口家 伊那谷の小笠原家庶流


溝口氏 松皮に井桁 (清和源氏小笠原氏族)

溝口氏

どうも、溝口氏は府中小笠原の系流らしい。

そして、北条残党と南朝の砦の、”大徳王寺の戦い”で、幕府側・小笠原守護が勝利した後の、大徳王寺の周辺・黒河内の郷を、小笠原守護は信頼できる親族に任せた。小笠原氏長がその人である。氏長は、その土地の名前を戴いて溝口氏長と名乗ったらしい。溝口は、今の美和ダムの沿岸に位置する。氏長の時代、溝口は、諏訪大社の神域のど真ん中を占め、守護に反目する諏訪神党に周囲を囲まれた位置にあった。

 戦国時代、信濃国の有力大名である小笠原氏に仕えた溝口氏がいた。『信濃史源考』によれば、溝口氏は小笠原氏の分かれで、小笠原政長の子孫三郎氏長が伊那郡溝口郷を領し、地名をとって溝口氏を名乗ったのが始まりだとしている。氏長以後、宗家小笠原氏に仕えて数々の戦いに出陣し、秀重は持長に属して漆田原合戦において戦死、貞信は長朝に属して松尾矢賀沢の戦いにおいて戦死したが、そのとき、嫡男孫三郎、二男の房八郎も貞信とともに戦死した。このように、溝口氏の歴代は小笠原氏に命を捧げてきたのである。

 貞信の三男(系図上で)美作守長友は、小笠原長時の弟で伊那郡鈴岡城主であった小笠原信定に仕えた。当時、信濃の隣国の大名であった武田家は国内統一をなして、当主晴信は西上の野望を抱き、その第一歩として信州経略を目指していた。

武田信玄の信濃侵攻・・・小笠原氏に忠節を尽くす

この間、野々宮合戦に敗れて村上義清の許に滞在した長時に対して、長勝は鈴岡から援助を施した。この長勝の行為に報いて、長時は右馬助の官途と「吉光の御脇指、小狐と申し御弓」を下賜したと伝える。そして、天文二十三年(1554)長時は中洞の小屋を離れて、越後上杉氏を頼った。その後、長勝は長時を迎えて信定の拠る鈴岡城に至ったが、伊那方面の反武田勢力の一掃を期していた晴信に駆逐されて、長時は京都の三好長慶を頼る羽目になった。・・・ 長時の上洛に従い長勝は父長友と共に従い、京畿にあっては長時が頼みとした長慶の弟三好義賢の居城河内高屋城に寄寓した。ここにおいて、長友は七十二歳で討死、長勝も同城において死去したと『御家中由緒書』に記されている。・・・ その後の溝口氏は、長友の八男の貞泰が継いだ。貞泰は、天正十年(1582)三月、武田氏の滅亡を機に、長時の子貞慶がが府中回復を窺って西牧の金松寺に現れた折、既に貞慶に供奉しており、その後も一貫して貞慶の深志への復帰実現のために尽力した。同年七月、貞慶の松本入城後は、貞慶の股肱の臣として貞慶の意を体して、貞慶旗下の将士に戦功を励まし、所領を宛行い、あるいは検地役を勤めるなどの所務沙汰に関与した。一方、天正十年八月の日岐城攻撃には侍大将として出陣する働きをみせている。
 それら貞泰の功労は、天正十一年三月二十四日付の貞慶宛行状案中に「数代之忠節、殊更別シテ五ヶ年の奉公ニ依ル」という文面からも窺われる。このように小笠原貞慶と溝口貞泰との君臣関係は、天正十七年(1589)九月三日付で貞慶が貞泰に送った起請文中に「心をおカす可被申候」とあるような、隔心のない親密な間柄であったことが偲ばれる。・・・【参考:戦国大名家臣団事典信濃史源考 ほか】

溝口氏の情報は下記による

溝口家記 二木家記と岩岡家記 ただし別:越後新発田、溝口家文書は別流・注意

あるいは、蕗原拾葉にも記載がある。諏訪神党と行動を一つにしていた記録が残る。

系譜
貞宗-政長-三男・氏長(溝口氏)-秀行-政行-秀重-貞信-三男・氏友-長勝-常長-常吉-重長-重恒・・・一般に流布された系譜だが、疑問が多い。

概容(樹堂氏による)・・・

深志城の築城者・島立氏は溝口氏の系流・・・

「小笠原政長の三男右馬助氏長※の二男土佐守貞長が信州伊那郡入谷庄溝口に住、曾孫の溝口右馬助長友が小笠原長時に従って出奔し、美濃国にて死し、その子が溝口彦左衛門勝政なり」と記しているからである。また、真年翁の『百家系図稿』巻六にも、これと同様な系図が記載され、『華族諸家伝』の或説の記事と対応する。
※  右馬助氏長は、島立氏の祖として知られ、『百家系図稿』巻六所載の「溝口系図」では、氏長の子の三郎太郎重長が島立右馬助と号し、その三郎次郎貞長が溝口土佐守と号し、永享七年(1435)十月の常州佐竹の永倉遠江守追討のときに従軍したとある。以下、その子の「貞勝-貞信-長信、その弟長友」(貞長と 貞信の間に一代欠落があるか)と続いて、長友の子に「彦左衛門勝政-秀勝」と記される。なお、この信州溝口の系図は、『姓氏家系大辞典』記載の系図よりは 信頼性があるか。
この系譜は明らかに仮冒であって、小笠原一族の系図に溝口彦左衛門勝政を接合させたものである。なぜなら、溝口右馬助長友が主君の小笠原長時に従って信濃を出たが、死んだ地は美濃国ではなく、三好義賢の居城たる上方の河内国高屋城であり、その嫡男右馬助長勝とともに天文二三年(1554)に死んでいる。右馬助長勝の八弟の美作守貞泰は、長時の子の貞慶・秀政親子に仕えて、慶長十三年(1608)には「溝口家記」を執筆して主君秀政に呈した事情もある(『戦国人名事典』)。信濃松本城主の小笠原貞慶が、天正十一年三月にその臣溝口貞康に対し筑摩郡の地を与え(大日本史料 11編)、天正十七年九月に溝口美作守(これも貞康)に誓書を与えた(史料綜覧 11編)、と史料に見える。
一方、溝口彦左衛門勝政は天正三年(1575)三月に死んだと家譜にいい、その子の伯耆守秀勝の活動時期は1548生~1610没とされるから、「勝政と長友」、「秀勝と長 勝・貞泰兄弟」とがそれぞれ同世代として対応することになる。溝口彦左衛門勝政は右馬助長友の子ではありえないということである。-ucomより

系譜・・信濃国人史・・・

溝口長友(1485~1551)

鈴岡小笠原信定家臣。1545年、武田晴信は、藤沢頼親の拠る福与城を攻撃した。小笠原長時は、妹婿でもある藤沢頼親を援けるため、軍を発したが戦うことなく兵を退いた。1548年「上田原の戦い」において、村上義清と武田晴信が戦い、武田勢に大勝した。この勢いをかって、小笠原、村上、仁科、藤沢の連合軍は諏訪郡に討ち入った。これに対し、武田晴信は甲府より急行し、小笠原長時は兵を退いて塩尻峠に陣を布いた。武田群は塩尻に押し寄せ、合戦になったが、ついに小笠原長時は大敗して林城に退いた。1546年、武田晴信は村井に陣を布いた。これに対して小笠原長時は桔梗ケ原で応戦につとめたが、草間肥前守、泉石見守らを討たれて、小笠原長時は林城に退いた。これにより、洗馬の三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は武田晴信に降った。小笠原長時に属したのは、二木、犬甘、平瀬らの諸家のみであった。

溝口長勝(1512~1565)

溝口長友の男。官途は右馬助。父溝口長友は小笠原信定(小笠原長時の弟)に仕えていた。1550年「野々宮の戦い」ののち、村上義清のもとにあった小笠原長時を援助した。1554年、長尾家のもとにあった小笠原長時を伊那郡鈴岡城に迎えたが、武田晴信の攻撃を受けて信濃国から落延びた。父溝口長友とともに小笠原長時に従って三好長慶を頼り、河内高屋城に寄寓していたが、同地において病没した。

溝口貞泰(1539~1608)

溝口長友の八男。官途は美作守。1582年、小笠原貞慶が金松寺に入った際、これに仕えて深志復帰に尽力した。その後政務を担当する。1582年「日岐城の戦い」では侍大将として参陣。1608年『溝口家記』を著して小笠原秀政に献じた。

宮田親房(15??~15??)

伊那郡の国人衆。官途は左近正。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。

溝口正慶(15??~15??)

伊那郡の国人衆。官途は民部少輔。藤沢頼親家臣。藤沢頼親が武田晴信に降ったあとは、武田家に属した。1556年、武田晴信が川中島で長尾景虎と対陣中、黒河内政信、溝口正慶、松島信久、春日重親、殿島重国、宮田親房、小田切正則、上穂重清の八人は武田家から離反したが失敗、戦後狐島で磔にされた。・・・溝口正慶は保科正俊の子の説がある(保科正直兄弟)

 

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徳川・親藩大名の小笠原家 ・・・松尾小笠原家の系譜

2014-03-03 20:36:01 | 歴史

・・・松尾小笠原家の信嶺以後・・・幕藩体制の大名として

江戸幕府・親藩・信嶺系小笠原家

小笠原家(信嶺系)


武蔵本庄藩 1万石
・藩祖 小笠原信嶺 -小笠原信貴の長男。正室は武田信廉の娘(久旺院尼)。
松尾小笠原家出身であり、府中小笠原長時と対立し武田信玄の家臣となる。天正十年(1582)の織田信長による武田侵攻の際に織田に降り先鋒を務める。本能寺の変の後は徳川家康に仕える。
・二代:小笠原信之:従五位下 左衛門佐 徳川四天王・酒井忠次の三男。酒井家次と本多康俊の弟。正室は小笠原信嶺の娘。


下総古河藩 2万石
・藩主:初代小笠原信之:従五位下 左衛門佐 徳川四天王・酒井忠次の三男。酒井家次と本多康俊の弟。正室は小笠原信嶺の娘。
・二代:小笠原政信:従五位下 左衛門佐 小笠原信之の子


下総関宿藩 2万2千石
・藩主:初代:小笠原政信:従五位下 左衛門佐 小笠原信之の子
・二代:小笠原貞信:従五位下 土佐守 旗本高松貞勝の長男、母は小笠原信之の娘 。


美濃高須藩 2万2千石
・藩主:初代:小笠原貞信:従五位下 土佐守 旗本高松貞勝の長男、母は小笠原信之の娘。


越前勝山藩 2万2千石
・藩主:初代:小笠原貞信:従五位下 土佐守 旗本高松貞勝の長男、母は小笠原信之の娘。
二代:小笠原信辰:従五位下 駿河守 小笠原貞信の子小笠原信秀の長男
三代:小笠原信成:従五位下 能登守 旗本酒井因幡守忠隆の二男。正室は小笠原信辰の娘。
四代:小笠原信胤:従五位下 相模守 伊勢神戸藩主本多伊予守忠統の二男
五代:小笠原信房:従五位下 飛騨守 第2代藩主小笠原信辰の長男
六代:小笠原長教:従五位下 相模守 小笠原信房の二男
七代:小笠原長貴:従五位下 相模守 小笠原長教の二男
八代:小笠原長守:従五位下 相模守 小笠原長貴の六男


・・・明治・・・

 

特異な別家 小笠原陣屋

 小笠原陣屋

伊豆木陣屋

小笠原長巨・小笠原信貴の弟


小笠原長巨
・・・長巨は「糾方的受之人」(笠系)と認められていた。実はこの時代、惣領家が存亡の危機の時、糾方的伝の一子相伝をやめ、才能のある分家にも伝えたという。長巨はその一人であり、彼の子孫にも礼法が伝わっていく。・・・天正十八年(1590)、惣領家の秀政が、秀吉の仲介で家康の長男・信康の娘徳(登久)姫を娶る時、長巨の妻が介添役を勤めた。それを機に、長巨は松本に通って秀政からの糾法の質問に答えたという(秀政年譜)。・・・長巨は一旦は兄信嶺とともに本庄に移るが、慶長五年(1600)、旗本格千石取りで伊豆木(飯田市)の地に着任した。・・・長臣はまた当時の播磨明石城主の忠真(秀政次男)に招かれ、城内に小笠原流弓術の矢場を作った。その後も伊豆木系の男子の多くが小倉藩小笠原惣領家の家臣となった。・・・長臣はこのように、戦国時代に混乱した小笠原流礼法の貴重な伝達者になった。後年は隠居して「以鉄」と号し、飯田近在で礼法の顧問的存在となったという。・・・伊豆木小笠原氏の居館が現在も「小笠原屋敷」として残る。長巨系の伊豆木小笠原氏は、明治まで続く。・・・伊豆木小笠原は小笠原流礼法を守った家系であり、数々の礼書を残している。

小笠原屋敷・資料館・・・伊豆木での見所は小笠原屋敷。小笠原屋敷自体が「旧小笠原書院」の名で国の重要文化財であり、有料で屋敷内の見学ができる。・・・屋敷の敷地内には、対照的な現代建築の市営の小笠原資料館が隣接している。資料館には展示物のほかに小笠原家から寄贈された礼法・弓法関係の古文書も多数所蔵されている。閲覧するには、市教育委員会に事前に申し込む。

秘伝を学ぶ際の起請文・・・資料館の展示物の中で、礼法を学ぶ者にとって最も重要なのはこの起請文。
これは小笠原流礼法の礼書を外部の者が閲覧する際に用いた誓書である。
弓法躾判紙 
一、御相伝之儀疎略存間敷事 (御相伝の儀、粗略に存じまじき事)
一、失念之節私之儀仕間敷事 (失念の節は私の儀仕うまじき事)
一、他流誹間敷事 (他流を誹(そし)るまじき事)
一、無御免大事他伝申間敷事 (御免なく大事他に伝え申すまじき事)
一、自余之儀雑間敷事 (自ら余の儀、雑(ま)ぜるまじき事)

これは世代を重ねて合理的に考え抜かれてきた「小笠原流礼法」に、勝手なノイズを入れない、すなわち聞きかじった者が勝手に自己流「小笠原流礼法」を名乗らせないためにとられた措置である。伊豆木小笠原氏は山村の旗本格ながら、正当な小笠原流礼法を伝承しているという自負と責任感がうかがえる。 この起請文は現代に小笠原流礼法を学ぶ人にも共有してほしい。

場所:長野県飯田市伊豆木3942-1

 


小笠原信嶺  ・・・ 松尾小笠原家歴代

2014-03-03 19:59:14 | 歴史

                   松尾 

  小笠原信嶺

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小笠原信嶺
時代 戦国時代から安土桃山時代
生誕 天文16年(1547)
死没 慶長3年2月19日(1598・3・26)
戒名 徹抄道也大居士
墓所 埼玉県本庄市内の開善寺
官位 掃部大夫
主君 武田信玄→勝頼→織田信長→徳川家康
信濃国松尾城主→武蔵国本庄城主
武田軍三河攻めで、遠江に侵攻し、井伊谷の領主
織田信忠軍の先陣。信濃「高遠城攻略」
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原信貴
妻 正室:武田信廉の娘(久旺院尼)
子 娘(小笠原信之正室)、娘(榊原忠勝室)
養子:信之

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小笠原信嶺は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。弟に長巨がいる。

生涯
天文十六年(1547)、松尾小笠原氏出身の信濃松尾城主・小笠原信貴の長男として生まれる。父と同様に武田信玄配下の信濃先方衆として働いた。武田晴信(信玄)が天文二十三年(1554)の伊那侵攻で、城主の小笠原信貴・小笠原信嶺父子は武田氏に従い、鈴岡城攻めでは先鋒を勤めた。信玄の死後も引き続き武田勝頼に仕えて、遠江方面の要衝を守っていた。
しかし天正十年(1582)、織田信長による甲州征伐がはじまると、すぐに信長に降伏して織田軍の「高遠城攻め」の道案内役を務めた。同年六月、信長が本能寺の変で死去したため、天正壬午の乱では徳川家康に属し、家康の家臣酒井忠次の家臣として各地を転戦、松尾城などの知行を安堵されるとともに、天正十二年(1584)には、元武田家臣の下条頼安を誘殺するなど支配力の強化にも努めた。
天正十八年(1590)に家康が関東に入部した際、武蔵児玉郡本庄に1万石を与えられ、本庄城主(藩祖)となる。本庄氏時代の城を廃し、久城掘り西側に新たに城を築き、低地である花の木で生活していた住民を台地へ移住させ、新しい町造りを開始した。・・・移封の時、松尾城、鈴岡城廃城。
翌年の天正十九年(1591)には、夫人の兄である甲斐国永岳寺の救山宗温禅和尚を迎え、自らが開基となり、畳秀山の開善寺(小笠原氏の菩提寺と同名)を本庄宿の中宿に建立した。
豊臣秀吉の朝鮮出兵時には九州まで出向いている。伏見城の築城工事の際には人足200人を引率した。慶長三年(1598)二月、江戸で死去。享年52。家督は養嗣子の小笠原信之(酒井忠次の三男)が継いだ。


小笠原信貴  ・・・ 松尾小笠原家歴代

2014-03-03 17:25:25 | 歴史

             松尾 

  小笠原信貴

*定基の嫡子・小笠原貞忠 (~1534年)は天文三年(1534)、府中小笠原長棟との戦いで戦死。松尾小笠原家を継いだのは信貴。

小笠原信貴
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
主君 武田信玄
藩 信濃国松尾城主
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原貞忠?
子 小笠原信嶺(長男・1547-1598)、小笠原長巨

*松尾小笠原家の名前の連続性・”貞”の文字は、定(貞)基で途絶えた。定基と信貴は、長棟に敗れて、信玄のもとに庇護を求めて逃げた時、信玄に臣下を誓い、武田家の”信”の一字を貰ったものと思われる。定基、信貴の生没は不詳ながら、信嶺が、父信貴が二十歳の時の子であると仮定すれば、信貴の生年は1527年と言うことになる。仮定の話であるが、”当たらずとも遠からず”に拠れば、信玄の所に逃げた信貴は、六歳の幼年であり、甲斐で成長し成人して、信玄の”信”を貰い、信貴を名乗ったとしても違和感はない。

小笠原信貴は、戦国時代の武将。
信濃国松尾城を領していた。松尾小笠原氏の出身で、府中当主である小笠原長棟や小笠原長時と対立して敗れから、武田信玄に臣下した。その後は武田配下の信濃先方衆の一人として活躍した。その後、天文二十三年(1554)、小笠原信定の守る鈴岡城を落とす。これにより松尾小笠原家を再興。山県昌景に属し、伊奈先鋒衆百騎を預かる。・・・天文十八年(1549年)、室町時代後半から衰えていた開善寺を復興させた。

別家・坂西家との争い・・・
永禄年間(1558~1570)、飯田城主の坂西長忠と松尾城主の小笠原信貴との領地争いに端を発した紛争が続いた。永禄五年(1562)、坂西長忠が武田勝頼に謀反したとこにより紛争に拍車がかかった。9月16日、坂西氏の兵が松尾に侵入したことを契機に、松尾城代・清水但馬守を先鋒とする小笠原勢が飯田城へ総攻撃をかけた。持ちこたえることができない飯田城主長忠は小雨の中を城を捨て、竹村・窪田・代田らの家臣と共に、木曽方面へ逃げ出した。小笠原氏は密使・近藤茂助の通報により、市瀬・勝負平に先回りをして討ち取った。その時、長忠は一子を家来に託して落ち延びさせようとしたが、家来は山中を踏み迷った後、かろうじて飯田峠を越えたが、大平宿東端の迷い沢下流で息絶えたといわれている。この子供を祀ったのが御君地蔵で、また「迷沢」「御子谷」の地名がついたといわれる。

 

 

 


小笠原定基の特異性  ・・松尾小笠原家

2014-03-03 00:58:38 | 歴史

       松尾 

 

松尾小笠原家 定基の特異性

守護になれなかった定基だが、この松尾小笠原家は、極めて”外交”に特色を持つ。まず幕府との関係だが、この時期幕府と言うより、応仁の乱の末期に当たり、東軍に属した松尾家は東軍の司令部より様々な指令が来たようだ。最初は、銀閣寺を作った将軍・義政より、松尾と府中に対して、鈴岡と仲良くするように司令が来る。義政が政権を離れると、東軍の司令部は、松尾と木曽氏に、西軍の府中・小笠原と美濃・土岐氏の征伐を命じる。そして松尾は隣国・竜東の知久氏と謀り、鈴岡・政秀を謀殺する。さらに、尾張守護が遠江鎮圧のために松尾定基と子の貞朝に出兵を要請している。よく分からないのが、北条早雲と松尾小笠原家の関係だ。早雲からの書状を読むと、松尾と後北条は、まるで同盟関係のような内容である。

これを解く鍵は、京都小笠原家を含めた、足利幕府内の、伊勢氏(=のち、早雲)との姻戚関係や幕府内の役職上の関係性の把握が必要に思える。さらに、応仁の乱の、東軍・西軍に分かれての対立が、松尾と府中の対立に重層的に関与している実態は、まさに”一族の内乱”を超えて、”代理戦争”となっている。
小笠原定基の時代は、将軍義政の後、将軍義尚の時代へ移り、時代を重ねて推移する。この将軍義尚の時代、伊勢盛時(=早雲)は申次衆であった。ただ、府中については西軍に位置するが、西軍からの書簡が見られないことから、明確な東軍の立場の松尾小笠原家との対立・対抗上、消極的に西軍に位置したのではなかろうか。

申次衆とは、室町幕府の職名の1つ。
申次とは奏者とも呼ばれ、元来は天皇や院に奏聞を取次ぐ役目をする人物を指し、鎌倉幕府や室町幕府でも将軍に奏聞を取次ぐ人を指した。幕府の申次は将士が将軍に拝謁するために参上した際にその姓名を将軍に報告して拝謁を取り次ぎ、同時に関連する雑務も処理した。室町幕府六代将軍足利義教の頃には伊勢・上野・大舘・畠山の4氏出身者によって独占されるようになり、彼らは数名で結番して交代で申次の職務にあたった。これを申次衆と呼び、後に御相伴衆・御供衆・御部屋衆に次ぐ家格としての意味を有するようになった。申次衆は、常に将軍の側に仕え、各種相談を受ける内、信頼を勝ち取り、時には将軍に政策を具申できる立場でもあった。
近年では、伊勢盛時(北条早雲)も申次衆の1人であったと考えられている。さらに、早雲の正妻は、京都小笠原氏の女であったという。

諏訪氏との関係
松尾小笠原家は、別家坂西家が諏訪上社に帰依し、積極的に坂西”孫六”が上社を支援していたので、付随して上社と同盟するに至った様だ。諏訪家の内訌に関しても、一貫して上社・大祝家と高遠家の側に立ち、お互いに戦に援軍している。府中は、これも松尾との対立・対抗上、下社・金刺氏を支援したようだ。諏訪家は守護代を任じ、小笠原家に次ぐ諏訪神党の武士団を持っていた。この諏訪の内訌の時代が、小笠原定基の時代と重なる。

この部分・・・小笠原家の内訌(=内乱)と諏訪家の内訌は、重層的に絡み合う関係性は、一地方部族の限定された物語ではないようだ。鎌倉時代という時代の終焉に伴う、次期の時代への移行期に発生した南北朝の対立の時代に、その主役を務めた諏訪神族と、室町時代の牽引の役割を担った足利一族の同盟者・小笠原一族との軋轢と協調の時代を、明快に解析して解説しうる書を探してみたが、部分的あるいは間接的表現されている書のみで、満足できるものはなかった。その為であろうか、小笠原定基の評価は、世俗的で低いものになっている。つまり、同族を謀殺した、とか、府中と内乱的に対抗した、とか。しかしである・・・この定基の行為を点検すると、小笠原一族と諏訪神族と、この二流の矛盾を解放し、日本的世界に解放できる「アウフヘーベン」的要素をもった”将”であったのではないか、と思える。小笠原定基は、もっともっと再評価されるべきである。