探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原長時  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-14 19:37:48 | 歴史

     府中小笠原家 

 小笠原長時

 

*悲劇の信濃守護・小笠原長時・・。甲斐武田の敗れ、失意の内に京都へ落ちていく。

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小笠原長時

小笠原長時
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正11年10月23日(1514年11月9日)
死没 天正11年2月25日(1583年4月17日)
改名 豊松丸(幼名)、長時、湖雪斎(法号)
別名 又二郎、右馬助(通称)
墓所 福島県会津若松市の大龍寺
官位 従五位上、信濃守、大膳大夫
幕府 室町幕府信濃守護職
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原長棟、母:浦野弾正忠の娘
兄弟 長時、信定、清鑑、洞雪斎、統虎、妹(藤沢頼親室)
妻 正室:仁科盛明の娘
子 長隆、貞次、貞慶

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概容・
小笠原長時は、戦国時代の武将。信濃国守護で戦国大名。府中小笠原氏の当主。林城主。小笠原長棟の長男。

歴史・
大永六年(1526)11月、十三歳で元服する。家督を継いだのは天文十年(1541)、父長棟が出家したときと思われる。以来長時は小笠原一族を率いている。・・隣国の甲斐国では小笠原氏と同じ甲斐源氏の一族である武田氏により国内統一がなされ、長時と同じ年に家督を相続した武田晴信(信玄)は信濃侵攻を開始する。天文十四年(1545)に晴信は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、4月に頼継の高遠城を陥落させる。さらに長時の娘婿でもある福与城の頼親を攻めると、長時は龍ヶ崎城(辰野町)において武田方に対抗する・・小平物語。武田勢は甲斐や今川・北条の援軍を得て同年6月には家臣・板垣信方の軍勢が龍ヶ崎城を陥落させ、長時は敗退している・・高白斎記。・・武田勢は伊那を制圧すると佐久侵攻を進め、小県郡の村上義清と対立する。天文十七年(1548)2月には小県郡上田原の戦いで義清は武田勢を撃破し・・高白斎記・勝山記、長時は同年4月に村上義清や仁科氏、藤沢頼親らとは諏訪郡へ侵攻する・・神使御頭之日記。さらに6月にも諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻を行い・・神使御頭之日記、6月に塩尻峠へ進撃するが武田勢に敗退している(塩尻峠の戦い)。・・天文十九年(1550)7月には本拠の林城も失い、府中小笠原氏は没落した・・高白斎記。同年には同族である京都小笠原氏の稙盛を介して将軍足利義輝に太刀・馬を献上しており、信濃国衆に対する下知を約束されている。没落後の長時は中塔城の二木氏を頼り越後へ逃れたとも・・二木家記、あるいは実弟である鈴岡城の小笠原信定のもとへ逃れたとも言われるが・・笠系体系、正確な動向は不明。・・弘治元年(1555)には同族の摂津国の三好長慶を頼って上洛し、上方に滞在している。・・信濃では村上義清ら北信豪族が越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・上杉間の川中島の戦いが繰り広げられており、永禄元年には甲越和睦の一環として武田晴信が信濃守護に補任されているが、晴信は和睦後も軍事行動を続け、将軍義輝は景虎への信濃介入を認めている。永禄二年(1559)には長慶の仲介で将軍義輝と対面しており・・伊勢貞助記、義輝は上杉謙信に対して長時の信濃復帰への助力を命じている。永禄六年(1564)には三好長慶が病死し、長時はしばらくして上杉氏のもとへ移っている。・・天正六年(1578)の謙信死後は越後を離れた。天正八年(1581)には織田信長に迎えられ、信濃の名義上の旗頭として利用される。信長の京都御馬揃えにも参加した。後、会津の蘆名盛氏に客分として迎えられる。盛氏の下で長時は厚遇され、また軍師として戦略面で盛氏の支援も担当したという。
天正十一年(1583)2月、客分のまま会津で病死した。・・・逆臣に謀殺されたとも言う。享年70才。この前年の天正十年(1582)に武田氏が織田信長に滅ぼされ、蘆名家には同行せず織田家に残り信長に仕えていた三男の小笠原貞慶が信濃に所領を与えられている。

三好氏は阿波国守護細川氏の被官で、鎌倉時代の阿波守護小笠原長清の後裔を称し、小笠原氏と一族意識を持っており、長時は長慶や京都小笠原氏など同族間ネットワークを駆使したことが指摘されている。・・ 永禄四年閏3月義輝御教書「上杉家文書」、また長時・貞虎(貞慶)は本門寺(高槻市)に対して旧領復帰を祈念し寺領寄進を約束している。・・義輝が景虎に長時帰国支援を命じた永禄年九月には甲越間の最大の激闘であったと言われている第四次川中島の戦いが発生しており、これを機に甲越間の北信地域を巡る争いは収束している。なお、京では永禄七年(1565)に義輝が暗殺される政変が発生し、さらに永禄十一年(1568)には尾張の織田信長により三好氏が駆逐され、義昭政権が樹立され、武田氏は信長・義昭政権と友好的関係を築いている


参考:『小笠原牡丹』
小笠原長時:信濃守護職・小笠原長時は草花、特に牡丹の花を愛した。
天文十九年(1550)7月、塩尻峠で武田晴信に敗れて以来、衰退著しい長時は、祈願寺である兎川寺の住職を訪ねた。
・「和尚と会うのも、これが最後となろう。」
・「やはり、いけませぬか。」
・「うむ。無念だが、武田には勝てぬ。信濃を落ち延び、上方で助力を請う。・・・和尚に頼みがある。」
・「承りましょう。」
住職の了承を受けた長時は、一株の見事な牡丹を持って来た。
・「わしは、花が好きじゃ。この地を落ちるは、当家存続のため仕方ないとしても、わしが手塩にかけた花を武田の奴輩に踏みにじられるのは、我慢ならん。・・・そこで、わしが特に気に入りの白牡丹、この寺で育ててはもらえまいか?」
住職は申し出を快く引き受け、長時は居城を出て、山中を隠れ行き、上方目指して去った。
長時の残した白牡丹は住職が大切に育て、住職亡き後も、牡丹の話を住職から聞いた兎川寺檀家の久根下氏が『殿様の白牡丹』と呼んで、密やかに守り続けた。

戦国乱世の兵火を逃れ、400年の時を越えた『小笠原牡丹』は、今も松本城で美しい花を咲かせている。

参考:茶屋四郎次郎

茶屋四郎次郎は、安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった。

正式な名字は中島氏。信濃守護小笠原長時の家臣であった中島明延が武士を廃業し、大永年間(1521~1527)に京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる。・・・武士を廃業した理由に、戦役で”怪我”をしたため、という記録がある。茶屋の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(京都市中京区)に設け、160年にわたって本拠とした。・・初代清延が徳川家康と接近し、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。三代清次は家康の側近や代官の役割も務め、朱印船貿易で巨万の富を築いた。また角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し、「京の三長者」と言われた。しかし鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになる。10代延国(延因)時代の寛政十二年(1800)には納入価格をめぐって呉服御用差し止めを受け、文化七年(1807)に禁を解かれたものの以降はふるわず、明治維新後間もなく廃業した。江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされる。なお、茶屋四郎次郎家の末裔は、2000年に、東京福祉大学を創立している。

歴代・
・初代:茶屋清延、天文十四年 - 慶長元年閏七月(1545-1596)、明延の子で「茶屋家初代」とされる人物。若い頃は家康に仕え、三方ヶ原の戦い等で活躍して橘の家紋を賜ったとされる。本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し、後世に「神君伊賀越」といわれた脱出劇の際、物心ともに支援を行った。この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられる。
・二代:茶屋清忠、生年不詳 - 慶長八年4月(~1603)
初代の長男。父の地盤を引き継ぎ、徳川家御用達商人をつとめた。豊臣秀吉死後、徳川家康の権勢が絶大になるに及び、清忠も「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の取締役に任命され、優遇されるようになる。1600年の関ヶ原の戦い後には京都の情勢不穏を家康に進言し、京都所司代設置のきっかけを作った。板倉勝重が所司代に就任すると上方五カ所(京都・大坂・奈良・堺・伏見)町人の御礼支配、京都町人頭にも任命されたが、1603年に死亡した。
・三代:茶屋清次、天正十二年- 元和八年7月(1584-1622)、二代の弟で、長谷川藤広の養子となっていたが、兄の急逝のため江戸幕府の命で急遽跡を継いだ。呉服師の一方で藤広の長崎奉行就任後は長崎代官補佐役などを務める。1612年、朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得た。その財産によって茶道具を蒐集し、本阿弥光悦らの芸術支援にも熱心であったが、38歳の若さで死去した。
・家康の死の原因とも言われる「鯛の天ぷら」を家康に勧めたのは清次とされる。

 



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