探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原貞慶  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-17 02:38:03 | 歴史

     府中小笠原家 

 小笠原貞慶

 

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小笠原貞慶
時代 戦国時代
生誕 天文15年8月12日(1546年9月6日)
死没 文禄4年5月10日(1595年6月17日)
改名 貞虎、貞慶
・・元服の際には三好長慶の「慶」の字を拝領して改名
主君 織田信長→徳川家康→豊臣秀吉→徳川家康
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原長時
兄弟 長隆、貞次、貞慶
妻 日野輝資の養女(高畠長成の娘)
子 秀政

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小笠原貞慶・履歴

小笠原長時の三男。幼名は小僧丸。通称は喜三郎。従五位下・右近大夫。
父・長時が武田信玄との戦いに敗れて没落すると上京して三好長慶を頼っていたが、のちに織田信長に属した。
天正七年(1579)、蘆名氏に寄寓していた長時のもとに赴き、家督を相続する。
天正十年(1582)3月に武田氏、ついで6月に織田氏が滅んで信濃国が乱れると、旧臣たちに招かれて京都から下り、自力で旧領を切り取って名実共に小笠原氏を再興し、深志(松本)城主となった。
天正十二年(1584)に徳川家康に属すが、天正十三年(1585)11月、徳川氏の重臣・石川数正が貞慶の人質を連れて羽柴秀吉のもとへ出奔したため、貞慶も秀吉に仕えた。
天正十五年(1587)、秀吉の命により再び家康に属す。
天正十七年(1589)、家督を子・秀政に譲る。
天正十八年(1590)の小田原征伐には前田利家の手に属して奮戦、その功により讃岐半国を与えられたが、秀吉に追放された尾藤知宣を庇護したため改易された。しかし家康の関東移封に伴って子・秀政が下総国古河に3万石の所領を与えられたので、秀政を頼って古河へと移った。
文禄四年(1595)5月、古河にて死去。50歳。法名は以清宗得大隆寺。

概略・・・
父・長時の頃に甲斐の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、長時は小県郡の村上義清らと武田氏に対抗するが、天文十七年(1548)の塩尻峠の戦いにおいて敗退する。『小笠原系譜』『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』など近世期の系譜史料に拠れば、長時親子は信濃没落後に越後上杉氏を頼り越後へ逃れ、その後、同族の京都小笠原氏や三好氏を頼り京へ逃れたという。
京において長時親子は信濃復帰を望み運動しており、永禄四年(1561)に貞虎(貞慶)は長時とともに本山寺(高槻市)に対し旧領復帰の際には寺領寄進を約束している・・「本山寺文書」。なお本山寺文書に拠れば貞慶は「貞虎」から「貞慶」に改名している。「虎」は越後亡命時代に長尾景虎(上杉謙信)から拝領し、その後京で三好長慶から「慶」を拝領して、「貞慶」に改名したと思われる。
その後、長時とともに越後の上杉謙信のもとへ寄寓し、上杉氏と武田氏の間で川中島の戦いが行われているが、第四次合戦を契機に争いは収束し、長時親子も旧領回復には至っていない。
天正七年(1579)、長時から家督を相続する。長時は謙信の死後に会津蘆名氏のもとに奇偶しているが、貞慶は織田信長に仕えて諸大名への対武田交渉を担当している。天正十年(1582)に甲州征伐で武田氏が滅亡すると、信長から信濃筑摩郡に所領を与えられた。同年6月、信長が本能寺の変で死去した後は天正壬午の乱において徳川家康の家臣となる。中信ではこの頃、伯父の洞雪斎が上杉氏の後援で深志城を押さえていたが、小笠原旧臣は上杉氏の傀儡の洞雪斎から心が離れており、貞慶は徳川氏や小笠原旧臣の支援を得て深志城(松本城)を奪還する。これにより大名として復帰を果たした。その際、長男の小笠原秀政を人質として、家康の宿老であった石川数正に預けた。
天正十三年(1585)、突如、石川数正が秀政を連れて、家康から出奔し、豊臣秀吉のもとへ走り、家臣となった。天正十八年(1590)、小田原征伐では、前田利家軍下で軍功を挙げ、秀吉から讃岐半国を与えられた。しかし、秀吉の怒りで追放された尾藤知宣を保護したため、秀吉の怒りを買い、改易された。
その後は子の秀政とともに再び家康の家臣となり、下総古河に三万石を与えられた。文禄四年(1595)死去。享年50才。茨城県古河市の隆岩寺に供養塔があ。

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小笠原貞慶物語

信長の甲斐攻めの頃・・・
天正三年(1575)2月、信長の武将河尻秀隆から小笠原貞慶に府中回復を呼び掛ける書状が届いた。貞慶は父長時が信玄に駆逐され没落すると上京して、父子共に小笠原一族の三好長慶に頼っていた。『書簡并証文集』によれば、小笠原貞慶に「今度信長の直札を以て申し入れなされ候」とある。この秋に織田信長は信濃国へ出勢する予定であるので、その際に貞慶に還補することは勿論、「別して其許の御才覚此の時に候」と、その実力を発揮する好機であること、信濃国・美濃国境目の「有事」が発生した際には相応の尽力をするよう伝えている。貞慶はこの府中復帰の誘いで信長に臣属する契機となった。
小笠原貞慶は、深志城落城を報らされると直ぐさま飛騨から安曇郡金松寺に身を移した。貞慶は、信濃逃亡後小笠原旧臣と未だに疎遠状態であった。父長時以来の重臣・二木氏すら貞慶の動静が知らされていなかった。さすがに信長は信濃制圧に何の功績も無い貞慶の入府を許さなかった。信長は同月、上諏訪の法華寺に入り本陣とした。貞慶は、府中回復の絶好期でありながら旧臣の援軍も期待できず、府中を回復できなかった。木曽義昌は出仕し、信長の来援を謝し、太刀一腰・馬二疋・金二百料を献上した。信長は義昌に黄金千両を下賜し、更に寺の縁まで見送りに出るほどの”もてなし”をした・・『当代記』。武田氏滅亡を速めた穴山信君(梅雪)も出仕し、甲斐・駿河の本領が安堵された。各在陣衆が兵粮などに困り、深志城の城米があてられ、その不足を北条氏政から白米2千石、家康からも進上され、諸陣に配られた。
同月、「信濃国筑摩郡・安曇両郡之事、一色宛行候訖。全て領知に令す可し、次に木曽郷之儀、当知行に任せ聊かも相違有る可からず之状、件の如し」と、木曽義昌が武田氏征伐の”きっかけ”をつくり、更に出兵の先鋒となった功を賞した。2日後に、法華寺で甲斐・信濃・上野・駿河の知行割が行われた際、徳川家康に駿河一国が宛行われ、木曽義昌には、本知の木曽郷と前からの約束通り府中を含む筑摩・安曇両郡の新知が下された遺がいは、殆どが信長の家臣に与えられた。穴山氏本知分を除く甲斐と信濃国諏訪郡が、河尻秀隆の新知宛行として武田氏の本拠を押さえて与えられた。滝川一益には、厩橋(前橋)城を本拠とさせ、上野と信濃の小県と佐久の2郡を与えた。森長可には、以後川中島の海津城に在城を命じられ、越後の上杉景勝攻略の先鋒として信濃の高井・水内・更科・埴科の北信濃4郡を与え、次の布石としている。毛利秀頼には、信濃国伊那郡を知行させた。帰属した国人衆の旧領を安堵し、各家臣団の新知行地に再編入した。
小笠原貞慶は、府中の小笠原譜代衆をかき集め、上諏訪法華寺にいる信長に謁するため、金松寺から駆け付けたが、「御礼罷り成らず」と門前払いされている。木曽義昌の抜群の軍功の前に屈し、僅かな家臣を連れ京に戻って行った。

小笠原貞慶の松本復帰の頃・・・
30年振りに旧地に復した深志城主小笠原貞慶は、天正十年から十一年にかけて、一つは旧臣たちと寺社への所領安堵および寄進、もう一つは反貞慶の態度をとり続ける地侍の討伐に邁進した。前者に関しては、同年8月3日、筑摩郡の犬甘半左衛門久知への安堵状を皮切りに、数多くの安堵状・宛行状・寄進状を発行している。深志城に入ったものの、深志から川中島迄の間、即ち子檀嶺岳の北西、四阿屋山、聖山、冠着山辺りの筑北地方と安曇から仁科地方小谷迄も上杉の勢力下にあった。徳川家康にしても一時的措置として小笠原貞慶を利用したようだ。反小笠原の勢力が一揆を結び攻撃して来るか、景勝が南下策を採ればひとたまりもなかった。・・・現に木曽義昌が深志城を奪還すべく攻撃してきた。貞慶は深志城から果敢に出撃し、義昌を敗走させた。木曽領筑摩郡本山(塩尻市)から福島口まで追撃し、日が落ちたため陣中大いに篝火を焚き着陣を装い帰城しょうとしたが、義昌も予想していて兵を隠して反撃の準備をしていた。その撤退に乗じられ小笠原孫次郎・犬甘治右衛門政信らの重臣が討ち取られている。家康も、これを報らされ、貞慶の軍事力に期待できずとし、8月30日には、北条氏傘下となった木曽義昌に安筑二郡の安堵状を発し靡かせている。家康も切迫していた。東の北条の動きは速く、高遠の保科氏・諏訪氏・木曽氏などを初め南信地方の諸勢力を臣従させていた。それがため貞慶を無視し、中でも信濃の最大勢力である木曽義昌を逸早く調略した。・・・なお7月中旬、犬甘政信は、貞慶が本山で木曽義昌と戦い、一度勝利しながら帰城の時に背後を襲われ討死したため、犬甘氏の家督は弟の久知が継承した。天正十年7月の犬甘久和宛の貞慶の花押状には「犬甘今度本山に於いて討死、比類無に候、然者、彼の跡目其の方相続申付け被る可き候、家来以下引出、弥奉公為す可き事専用也」とある。・・・一方、貞慶も必死で天正十年(1582)8月初旬から、先鋒として犬甘半左衛門久知と塔原城主海野三河守を任じ、仁科一族日岐氏の制圧に向かっている。小笠原頼貞・赤沢・百束ら諸士が率いる後軍が深志を発ち安曇郡の穂高に陣を布いた。一方会田方面には赤沢式部少輔を出兵させ、青柳方面からも牽制させている。・・・9月には、武田氏旧臣水上六郎兵衛に筑摩郡小松郷を、岩間善九郎には「信州野溝・平田・村井庄之内6百俵、名田被官等事」と安堵している。貞慶は父長時の没落の原因が、その傲慢さ故に家臣団が育成されず寧ろ一族譜代に嫌悪され、その上の戦略の欠如が諸所を破綻させた事を知っていた。・・・貞慶は深志城から犀川筋を重視し、特に信州新町の牧之島に着目した。当時は東筑摩郡生坂村にある名勝山清路が通じてなく、下生坂からねむり峠を越えて込路へ出、大岡村・桐山・後沢、そして日向村・麻績へと大道が通じていた。その道筋を仁科氏一族日岐氏が、犀川沿いに小立野(生坂)地域には川はざま城・中野山城・小池城・高松薬師城、その北方の日岐・上生坂・下生坂にかけては小谷城・日岐大城・猿ヶ城・日岐城(ひき城;東筑摩郡生坂村日岐)・白駒城などで山城や砦で固めていた。兄の日岐盛直は犀川左岸にあった生坂の日岐城主で陸郷(池田町陸郷)に、弟盛武は生坂の万平に居館を構えていた。・・・深志に小笠原貞慶が侵攻し、川中島には越後の上杉景勝が反撃して来た。この時日岐盛直は弟盛武と共に上杉氏に属したため貞慶と対峙した。貞慶は天正十年(1582)8月初旬から日岐氏征伐を開始した。先鋒の犬甘半左衛門久知と塔原城主(明科)海野三河守が出陣した。9日には小笠原頼貞・赤沢・百束ら諸将も出兵し安曇郡穂高に布陣した。一方上杉方の会田・青柳方面からの援軍を牽制するため、会田へ赤沢式部少輔を派兵した。貞慶は日岐氏に対し29日の時点では、「大手口之備え如何にも存分如く候、一両日中に日岐之者ども退散申し候可く候と存事候」と当初は一両日中に落居させると楽観視していた。しかし9月6日付の犬甘氏宛の書状で、明日貞慶自ら日岐に出馬すると伝えている。その後も苦戦が続き、翌天正十一年(1583)8月初め頃、「日岐之大城御責め被成候御積りにて」、大規模な戦略策が採られた。小笠原貞慶軍は三隊に分かれて日岐軍を攻撃した。本隊は小笠原長継、溝口貞康軍合わせて五手で、会田・板橋・西ノ宮そして庄部の赤岩へ進軍した。第二隊は仁科衆二手で、大町・新町そして牧野島口に出て、日岐軍が北上して逃げる際の退路を断つという策であった。第三隊が小笠原貞頼・岩波平左衛門五手と旗本衆20騎が穂高・池田から日岐の北方にあたる草尾に出た。この隊の50騎が、徒歩となり草尾から犀川を船で渡り対岸の日岐崎に上がり20計りを討ち取った。すると後続の兵が続々と犀川を乗り越して日岐衆を追い落とし勢い付いて遂に日岐城を攻略し、万平の居館も陥落させた。降伏した日岐は、以後は小笠原氏に属した。貞慶は日岐丹波守盛武に天正十一年8月付けの花押状を渡している。「今度之重恩を為す、押野之内定納万疋之所出置可く候、此旨以て、忠信を抽す可き者也、仍って件の如し」と、その帰属を許している。天正十八年(1590)に小笠原氏が家康の家臣として関東に転封になると同行した。

その時、小笠原長時は・・・
天正十年の冬、貞慶は会津若松にいる長時を迎えるため、平林弥右衛門を遣わした。長時は、武田信玄により筑摩を追われ越後の上杉謙信を頼った。その後、一族と共に同族の三好長慶を頼って上洛し、摂津の芥川城に十五年間逗留した。権大納言山科言継の日記『言継卿記』に「妾がか所へ罷り向ふ、酒これあり。信濃国小笠原牢人(長時)、三好方これを頼みて芥川に住す。子喜三郎(貞慶)参会す」とある。・・・貞慶は父長時と共に諸国を牢浪し漸く三好長慶を頼ったが、それ以降も含めて30余年牢人していた事になる。永禄六年(1564)、三好長慶が病没し、翌永禄七年に、将軍義輝が暗殺された。そして永禄十一年(1568)9月28日から織田信長に芥川城が攻撃され、30日には落城し、三好氏が没落した。『小笠原歴代記』によれば、長時・貞慶父子は「信長上洛の砌、芥川城没落す。長時51歳。而して越後に御下着す。輝虎別して御懇意により、5百貫宛無役に進めらる。」と再び上杉謙信を頼った。・・・長時は天正六年(1578)の謙信死後は越後を離れ、会津の芦名氏の許に寄寓した。その間、貞慶は奥州・関東を流浪した末、天正三年(1575)頃織田信長に属し、越前から関東諸国への使者的な役割を果たしたようだ。天正八年3月23日、信長の重臣柴田勝家が、「其国御滞留」と記される越中にいる貞慶に、当国の武将の帰属を働き掛けるよう要請している。翌天正九年10月15日には、信長が越後へ出兵しようとして家臣の富田知信に送った書状に「猶貞慶申し可く候也」と、それを届けた貞慶に詳細を聞くよう命じている。・・・貞慶が漸く本領を回復した事を知り、長時は大いに欣喜したが、69才との高齢であば、陸奥の冬の峠越えは耐えがたく、翌春府中に帰ると使者平林弥右衛門に書状を託し帰した。・・・翌天正十一年3月貞慶は、再度平林弥右衛門を迎えに遣わせた。しかし既に、府中帰府の準備していた長時が、その最中に怨恨を抱いていた家臣坂西弾右門に暗殺されていた。府中の正麟寺(蟻ヶ崎) を父長時の開基としてその菩提を弔った。

徳川家臣になる・・・
天正十四年(1586)5月、家康は秀吉の妹・朝日姫を娶る。6月には秀吉の生母が、人質として岡崎城に送られた。10月、ついに家康が秀吉のもとに赴き、臣従の礼を取る。この年、居城を浜松城から駿府城に移した。11月4日の景勝に宛てた秀吉の書状には「関東之儀、家康と談合を令し、諸事相任せ之由仰せ出だされ候間、其の意を得られ、心易くす可く候」と和議を伝え、「真田(昌幸)・小笠原・木曽両3人儀も先度其の方上洛之刻、申し合わせ候如く、徳川所へ返置す可き由、仰せらる候」と、当時の信濃国を統べる勇将達3人は、家康への帰属を一方的に命じられることになる。翌天正十五年3月18日、「信州真田・小笠原、関白様御異見にて出仕候」と、『家忠記』は秀吉の命により駿河の徳川家康に拝謁し臣従を誓わされたという。・・・小笠原貞慶は、秀政に家督を譲り謹慎した。幸い秀吉の取成しがあり、家康の嫡男信康の娘を秀政の妻に迎え家康の譜代衆となった。

本能寺の変後の小笠原貞慶
天正十年6月2日、明智光秀のクーデターにより信長と嫡男信忠の政権は脆くも崩れ去った。信長政権が確立しないまま、特に甲信地区は.再び無主動乱の地となった。各地の旧主が自領の回復を計り、北の上杉景勝、南の徳川家康、東の北条氏政が旧領主に調略の手を伸ばした。12日、小笠原貞慶は嫡子秀政を徳川家康の人質に差し出して、徳川家康の支援を得て信濃府中に還着した。かつて小笠原長時幕下にあり、府中北方の伊深城主であった後庁(三村)勘兵衛に「今度石伯(石川伯耆守数正)御取成し故、家康御光を以て入国の行、偏にその方覚悟に候」と促し、本意を遂げれば後庁の名義と洗馬3千貫を宛行うとし忠節を促している。更に2日後14日の信濃入国に際し「当家奉行に相加え候」と貞慶は花押状を送っている。しかし長時の弟・叔父小笠原貞種が上杉景勝の後援をうけて信濃に侵攻して深志城を奪還した。景勝は13日には更級郡の清水三河守康徳を初め、16日には市河治部少輔信房など、主として北信の武将に旧領を安堵し、新たに所領を宛行っている。同様の措置として20日には、小幡山城守景虎に花押状、29日には西条治了少輔にも朱印状を与えている。・・・その間、景勝は梶田・八代の両物頭に、2百騎を預け深志城攻略に向かわせた。川中島より麻績・青柳・会田などの諸士を降ろし府中に入った。深志城の木曽義昌を攻め破り、小笠原貞種を城主として置き、小笠原氏の旧臣の所領が多い安筑地方を治めさせた。上杉氏は、謙信公以来、他領支配が稚拙で、梶田・八代の両物頭は、なんの施策も無く代官的機能も果たさず、貞種を表に立てることも無く、驕り高ぶり専横な言動を専らにし安筑地方の人心を失っていった。・・・結果、安筑地方諸士の輿望を失い、『二木家記』によれば、二木一門や征矢野甚右衛門が、起請文を書き有賀又右衛門、平沢重右衛門を使者にたて、三河の徳川家康の許に寄寓する貞慶の信濃府中への還住を願った。先の3月、信長による甲信制圧に際し、小笠原旧臣と安筑地域の諸士と連携がなされるまま無為に時を逸失し、木曽義昌の後塵を拝した。貞慶は最後の好機と知り、事前に書状で安筑地域の諸士の懐柔策をなし、今回は積極的に所領安堵と新知を宛行い、その他の恩賞を約定した。・・・貞慶が家康の支援を得て、三河から伊那谷に入り、その地の下条頼安や藤沢頼親の兵を合わせ塩尻に着陣すると、安筑両郡の諸将が既に参集し迎い入れる用意を整えていた。その塩尻で挙兵を宣言すると、7月17日夜明け、安筑の旧臣を率いて深志城を攻略に向かうと、貞種ら越後勢は戦うこともできず退去を余儀なくされた。貞慶は深志城に入ると深志の地を「松本」と改め、城下の整備に努めた。「松本」の地名は貞慶が命名したのではなく、既に深志付近にある一地名として古くからあった。貞慶が「深志城」を「松本城」と改称すると、「松本城」周辺に広く伝播され、その範囲が広がった



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