週刊朝日から掲載謝礼として3000円振り込みの手紙が届いた。
4年前までは仕事場で週刊朝日を定期購読していたがコロナ禍で
定期購読はやめていた。掲載は4月14日号。本屋さんにはもう
置いてない。仕方がないから朝日に電話してバックナンバーを
取り寄せた。それが今日届いた。誰の絵が掲載されたのかはわかって
いなかった。「二階俊博元幹事長」
前回の掲載は岸田首相だったから政治家の似顔絵が多い。
似顔絵塾は45年くらい前から連載が始まり、最初の頃は上手い事皆さん
描くなと感心して見てるだけだった。それが「私も投稿してみようか」
と考えるようになったが(作品は返却しません)の記載が気になって
投稿しなかった。それがパソコンでお絵描きを始めると、これを印刷して
投稿すれば手元に絵は残るということに気がついて投稿開始。しかし
事はそんなに甘くない。せっせと投稿したが掲載されない。厳しいなと
諦め始めた時に佳作入選。また改めて投稿開始してようやく1996年の
7月12日号に「浜田雅功」の絵が掲載された。それからせっせと投稿。
その後割と頻回に掲載されるようになり、いつの間にか(特待生)になり
「似顔絵展」にも誘われて銀座でのグループ展にも参加した。
しかし掲載されるのも稀になりだんだん熱が冷め、時々妻から「たまには
投稿したら」と発破をかけられるようになり現在に至る。
似顔絵を描いていると時々描いて見たくなるような顔がある。この顔も
その一つ。若い人より年取った人の方が歴史があって面白い。
でも週刊朝日が101年の歴史を経て後2ヶ月後に休刊になるそうだ。
寂しくなる。
先週19日の話に戻る。午前中の仕事を終え、帰宅、昼食。午後一時半にニャガラが亡くなったのは前の日記で書いた。
3時に術後検査の予約を取っていて、前日に今日は遅くなると言われてたので覚悟して来た。色々検査があって
時間がかかったが覚悟してたのでそれほど気にならない。採血検査は先生が採血。
「血管が出ないですね」
これも覚悟してる。骨折で入院してた時も採血にきた看護師が四苦八苦。数回刺されたのを覚えている。
「採れました」
一回で終わった。やれやれ。先生も気楽になられたのか色々雑談。その後診察室に戻って白内障手術の説明、
合併症の話はやらなければならないのだが聞く方は不安になる。しかし、まな板の上の鯉の心境でいるより仕方がない。
一番問題のレンズを多焦点にするか単焦点にするかを決める。最初やったレンズは多焦点で遠くも近くもピントが
合うのが売りで、自動車運転に有利。しかしもう免許証は返納して運転しないし多焦点は保険が効かなくて高価。
さらに回復まで時間がかかる。前回やった時は回復に2ヶ月かかった。
「左右別々でも支障ありませんか」
「あ、大丈夫です。多焦点、単焦点別々の方結構いらっしゃいます。
もっとも最初に単焦点、後が多焦点の方が多いですが」
すぐ見える方がいいから単焦点に決める。
会計終わって、予約したタクシーに乗ったのは6時半を過ぎていた。
「あ、▲▲さん、〇〇です」
「あれ?〇〇さん?え?偶然だなあ。びっくり」
「▲▲さんはどうして、ここに?」
「白内障の手術予定で」
「私の家内もここでやって貰いました」
その後色々雑談。家の近くまで来た時ポツリ、
「今日が私がタクシー乗るのは最後なんです。もう歳だから、車降ります」
「ええ?またまたびっくり。私が最後の日の客なんて」
そうこうするうちに家に着いた。
「長い間ご苦労様でした」
そう言って車を降りたが、改めてその小説のような出来事に驚いた。
話が前後するが以前眼科で手術した目に後発白内障が起こり、手術していない目の
白内障が進んでいる話を書いた。後発白内障のレーザー処理を先にやることになった。
予約した4時10分よりだいぶ早く着いたがすぐ呼ばれて術前の視力検査やら眼圧諸々の
検査、散瞳薬の点眼などの処置。散瞳するのに時間がかかり点眼5回繰り返す。
最終的に先生の診察があって色々説明を聞き、隣の検査室、処置室?に移動。
白内障の手術の時みたいに手術室ではない。コンタクトか何かはめて眼球を固定。
万華鏡のような光が見えて
「レーザーが出ます」
コン、コン、だったけ、何か連続して音が聞こえ数分で終了。痛みは全く感じなかった。
また診察室に戻って術後の点眼薬の説明。
「今日と明日は一日5回、その後は1日3回を一週間点眼して下さい。
今日明日は激しい運動とアルコールは避けて下さい」
おうおう、また禁酒か..ちょっと憂鬱。薬局が混んでいて
「あと待ち時間、4,50分です」
隣のカフェで時間潰し。処置後はぼーっと霞んでいた目が待っているうちに少し見える
ようになった。7時頃帰宅。
「お疲れ様、ニャガラは時々水飲んでるけど具合は良くないわ」
点眼開始。アルコールのない夕食は寂しい。
4日前からそれまで少しではあるが食べてたチュールとか練り物も
全く口にしなくなった。水だけは長い時間をかけて飲んでいる。
飲めているかどうかはよくわからない。水が汚れるとすぐ取り替える。
勿論2階に上がってくる事は皆無で時々一階を幽鬼のようにフラフラ歩く。
あとは猫ハウスか隣のベッドで目を瞑って横になっている。
ベッドで寝返りをして、失敗して下に落ちてしまうことも数回。
2日前オムツをしたままトイレに入り動けなくなっているのを妻が救出。
オムツが濡れているのを確認してオムツ交換。
昨日は朝から呼吸が不規則。目も開いているような閉じているような感じ。
昼食後、妻が「ニャガラ、逝ったかも。呼吸してない」
聴診器持ってきて聴診。心臓がとっとっ とっと弱く不規則に打っている。
その後心音は聞かれなくなった。4月19日午後1時半。
「亡くなったね。よく頑張ったな」
その日はまた改めて日記に書くかもしれないが、前日後発白内障でレーザー治療し
今日午後から術後のチェックを予約していた。
「私はお花買ってくる。あなたは遅れないように病院に行って」
検査を終わり、片方の白内障手術の予約をして夕方遅く帰宅するとニャガラは
花に囲まれて安置されていた。
「明日、深大寺で火葬して貰う予約取ったわ」
妻が言った。我が家からは、野良のオジサン、とら、そしてnini、kikiに次いで5匹が
深大寺にお世話になる。
ニャガラ
「私、明日の観劇行くのやめる」
「どうして、楽しみにしてたじゃない。行けば」
「この子置いて行ったら気になって観てられない。あなた行く?」
「いや、いい。遠慮する。俺が居るから行けば良いじゃない」
「いいわ、そんなに観たい訳じゃないし。宝塚みたいに絶対に
穴開けないようにって義務はないから」
と言う事で妻はニャガラの介護と韓流ドラマで日曜を過ごす。
ニャガラ
妻が留守の時早めに私が帰ったらニャガラが「にゃ」と言って顔を出した。
(あ、ニャガラはまたオムツになりました。猫ハウスでオシッコして猫ハウスが
びしょ濡れになる。後片付けが大変だし、ニャガラもオムツ当ててから却って
安心したみたいで猫ハウスで静かに寝ている。)
猫部屋に置いてあったプチまぐろを一袋与えたらうまく食べた。居間に上がって
テレビ見ようとしたらニャガラがついて上がって来た。冷蔵庫を探してお刺身を
与えたがいつもは食べるのに匂いだけ嗅いでぷいと横を向いた。プチまぐろを
取り出して与えたら口の脇からポタポタ溢しながら食べた。結局4袋、合わせて
5袋与えた。正味食べたのは2〜3袋ぐらい。でも一応満足したみたいで階段の
ところまで行って「にゃ」階段の上りはいいが下りは怖いみたい。私が骨折した
後もそうだった。抱いて降りる。手すりに掴まれないから慎重。ゆっくりゆっくり。
猫部屋まで行ったら安心したのか猫ハウスに入った。水取り替えて二階に上がる。
妻の心労がよくわかった。