泉岳寺の大石内蔵助(良雄)の墓
「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られています。
没年:元禄16.2.4(1703.3.20)
生年:万治2(1659)
江戸時代中期の赤穂事件の浪士47人の中心的指導者。名は正しくは「よしたか」。幼名は喜内。通称は内蔵助播磨国(兵庫県)赤穂藩の重臣の家に生まれ,父権内良昭の死後,祖父内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして家老職となった。石高1500石。山鹿素行に軍学を,京の伊藤仁斎に漢学を学んだといわれるが,そのまま何もなければ,平凡な一家老で生涯を終わっていよう。史上に名を遺すこととなったのは,赤穂事件のためである。 赤穂事件のうちの第1の事件は元禄14(1701)年の勅使下向の接待役を,藩主浅野内匠頭長矩が勤めたときに起こった。3月14日,長矩が,高家筆頭吉良上野介義央を,遺恨ありとして殿中で負傷させた刃傷事件である。長矩はただちに田村右京太夫建顕の邸に預けられ,即日,切腹・断絶・城地没収が,将軍徳川綱吉の意向として決定した。一方,義央には何の咎めもなかった。 事件の報が赤穂に伝えられたのは3月19日。良雄以下の家臣は,城中に集まり,開城か,切腹か,抵抗かをめぐって論議。300人の家臣団が,残る者,去る者,それぞれの生き方を示した。良雄は家中をまとめ,また藩札・藩の借金などの処置にも努め,4月19日に城を無事に受城使脇坂淡路守安照らに引き渡した。5月21日には万事の処置を終わり,6月25日の長矩の百カ日法要を花岳寺で行うと,山城(京都府)の山科に移った。 ここから事件は仇討ちに移る。良雄は,主君の恥辱をそそぐことと,長矩の弟長広による浅野家の再興,それがかなわなかったときに義央を討つことを考えていたようであるが,世評は江戸・上方とも浪人となった旧赤穂藩士たちに同情の声が多かった。11月良雄は江戸に入り約1カ月滞在。この間,8月に義央は屋敷替えの願いを聞きとどけられて,呉服橋の邸から両国の川向うの本所一ツ目に移転,12月には孫(養子)の上杉義周が吉良の家督を相続した。赤穂の浪士の中には脱落する者も出て,良雄も長男主税をのこして妻子と離縁,伏見・島原などで遊ぶ。15年7月,長広の浅野本家預けが決まり,お家再興の望みは消えた。同月,良雄は京都円山に同志を集め,「吉良邸討入り」の意志を確認。江戸に集結した浪士47人が「討入り」を決行したのは,同年12月14~15日。義央の首級をあげ,泉岳寺の長矩の墓前に供えた。討入った浪士たちは,幕府により細川・久松・毛利・水野の4家に分れて預けられ,翌16年2月4日に切腹。遺骸は長矩の墓のそばに葬られた。この結果,事件の発端となった長矩の未熟さは追求されることなく,同情をさえ引くこととなり,浪士たちは「義士」とたたえられた。近松門左衛門の「碁盤太平記」,竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」など浄瑠璃や歌舞伎に劇化され,あらゆる芸能によって,国民的関心といってよいほどの評判を得ている。そしてこの事件全体も「忠臣蔵」といわれるようになった。(コトバンクより)
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