
『近代文学』十月号の話で、平野氏は雲にのった孫悟空のように、自身をあらわしている。いまそこにある一つのことでわたしを非難したかと思うと(作家らしすぎるということで)、翻って、わたしが非難されたそれとは正反対のものであるとして(わるい意味で云われている組合の指導者)逆から非難する。このわざは、言葉のあやをかいくぐって連続的に行われているが、たとえばその足許の雲となっている一つの誤記が、誤記とわかってしまったとき、孫悟空の雲は消散して、さて一場のてんまつはどうなるだろう。
文学のことは、それについて話したいことを話すひとのものだけではなくなって来ている。
――宮本百合子「孫悟空の雲――『近代文学』十月号平野謙氏の評論について――」
今日は「悟空」5・9の日だそうです。筋斗雲をかいてみました。
悟空にとって筋斗雲とは水泳に於けるビート板みたいなものであろうか。我々はなぜかビート板なしでも浮けるようになってしまうし、むしろ、筋斗雲やビート板はスピードを遅くしてしまう邪魔なものになってしまう。勉強やお使いだって、はじめは自立してやれているのではないが、はじめは教師や問題集や入試などが補助装置として必要なのである。
生成AIがはたしてそういうものかどうか?ビート板がそのまま舟になったような勢いではないか?
最近の歴史では、ラジオで総ファシスト化、テレビで総白痴化、ビデオで総オウム化、PCで総クズ化、スマホで総老眼化ときて、チャットGPTで総精神病化ときたので、そろそろバ化がくるのではないだろうか。
そういえば、テレビの後から始まったゲーム脳とかもあった気がする。わたしはゲームと言っても将棋とオセロでとまったからわからないし、なぜかゲームというものに嫌悪感があるのであるが、――柄谷行人のデモに対するあれ風に言えば、「ゲームをすることによって脳を変えることは、確実にできる。なぜなら、ゲームをすることによって、その人の脳は、その人がゲームをする脳に変わるからだ」としかいいようがない。
わたしもパソコンでカチャカチャやってるから人のことは言えないが、太宰とか漱石の同時代人になったつもりで読むみたいな研究者は、まずそのカチャカチャやめろと。
――それはともかく、われわれはもはや道具というもので自分たちの生活を豊かに高度にする気はない。孫悟空になるのではなく、車に乗って悟空に守ってもらうつもりなのである。火花山の猿どもは楽をしていた。生の効率化である。
昔から、若い頃、仕事の効率化を主張している連中はものすごく多くいたが、彼らが今どうなっているかというと、単に好きなこと以外の仕事をさぼっているだけのひとになっている可能性が高い。思ったよりも人の社会は効率よく出来ないのはそもそも自明だし、はじめから「効率化」は方便だったのではないだろうか。現在効率化みたいな主張をする奴隷的人間はほぼ100%人に仕事を押しつけるために仕事の意味を攻撃しているだけである。一方、管理職みたいな人々にとっては、効率化の主張はだいたい他の改革事業やらのためのバランスとも関係していたわけで、もっと欺瞞的であった。ほんとは効率化でなくて時間を取りあげて新規事業に動員したいだけであった。で、結局、省いていいものなどあまりないから、仕事量は改革すればするほど増えてゆく。奴隷からしたら迷惑きわまりない。問題は、奴隷にも自意識があるので、この現状を打開するのに、他の奴隷を虐めることで自分の自由のスペースを確保するようなやり方が常態化したことだ。