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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2025-05-25 23:01:10 | 思想


1  私たちは言語を用いて相互の意志を伝達するわけであるが、言語表現の最も基本的な単位は「文」 である。 「文」 は、 あるまとまった内容を持ち、形の上で完結した(表記において「句点」が与えられる)単位である。文章や談話は、複数の文の有機的な組み合わせによって構成される。
2  文は、 より小さな要素の結合により作り上げられる。 文を構成する要素の中で最も基本的なものが 「語」 である。 「語」 は文を作るための最も重要な材料である。 文の数 (文として可能なものの数) が無限であるのに対して、 その材料である語の数は有限である。私たちは、有限の単語を用いて、限りない数の文を作り出すことができるわけである。


――益岡隆志・田窪行則『基礎日本語文法』


「国語」の勉強について、日本語が使えてるから意味ないじゃんみたいなことを言う人が増えたのは、いつからか文法の授業が軽視されていったことと関係があるような気がする。どっちが先か知らないが、英語もしゃべれればいいじゃんみたいな論調にいつのまにかなっていた。そういえば、わたしは大学の時に和田利政らの『国文法要説 文語篇』で勉強したが、文の定義は「ある一つのまとまった思想や感情を一つづきのことばであらわしたもの」という内面的定義だった。しかし、八九年初版の益岡隆志・田窪行則『基礎日本語文法』だと、上のように、言語を用いて相互の意志を伝達する言語表現の基本的単位が文、という記述になってる。横書きの書物だし、我々はコミュニケーションの動物だみたいな考え方をしている。

しかし、我々が内省してみれば、表現されたところの「文」が、相手に必ずしも意志を伝えているはずがないのは明瞭である。同様に、それ以前に思想や感情を完全に実現してもいない。こういう挫折とエラーだらけの現象がむしろ思考を生んでいる。このことは、言語表現を比べて相互に意味が交通可能かどうか調べてみることでより自覚される。だから、古典文法と現代文法を交互に学ぶのも意味があった。古典の恋の世界が現代人からみて共感できるよね、とか簡単に言えなくなるし、英語などとここまで文法的にも論理関係がちがうのに、なぜか日本語にいろいろ飜訳されうること自体が、――命がけの飛躍などではなくある種の論理的な関係にみえてくるからだ。人によるだろうが、私の場合は、ドイツ語をやっていたら日本の古文が少し読みやすくなった。

そういえば、フキハラ(不機嫌ハラスメント)が時々話題になっている。これなんかも、上の言語の性質を理解しないので起こっているような気がする。「感情労働」というのは、表現の完全性への強迫が大きな原因である。お客様や上司の言語は完璧に伝わっていなくてはならない前提がある。対して、右翼の街宣車や政治家の演説を聞かされるのも「感情労働」だと思うのだが、あれをフキハラだという人はいない。彼らがいい加減なことを言っており発言が情況によって流動的なのが前提だからだ。すなわち、家庭内の不機嫌表現は街宣車でやればよいのではなかろうか?――むろん、こういう発想が掲示板での罵詈雑言を生んできたわけである。

家庭内での話題が貧しくなり、お互いの言葉がマッサージ機能しか持たなくなれば、すべてのコミュニケーションが潜在的にハラスメントになるのであろう。話題が豊かというのは、完全な意味のやりとりよりも、話題それ自体がコミュニケーションよりも豊かということである。話題とは自立し運動する事象である。お互いがサッカーや連弾をやっていると思えば、感情や思想の発散されるところの表現は、その競技からでてくるのであって(主体はボールやピアノなので)、伝達やコミュニケーションだと思えばそりゃお互いはノイズだろう。


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