
そこで、私たちはそのあいだ玄関へ出てみることにしましょう。そこには、外套やステッキやこうもりがさや長靴が置いてありました。そして、そこに女中が二人すわっていました。ひとりは若く、もうひとりは年をとっていました。ちょっと見ると、どこかのお嬢さんか未亡人のおともをしてきたらしく見えました。けれども、もうすこし気をつけて見ますと、ふつうの召使でないことが、すぐわかりました。召使にしては、手が華奢ですし、ものごしも上品でした。それに、着物の裁ちかたにも、ふつうとは違った思いきったところがありました。この二人は、じつは仙女だったのです。若いほうは、もちろん幸運の女神ではありません。女神の侍女の一人に仕えている小間使でした。小間使とはいっても、ちょっとした幸運の贈り物を持っていました。もう一人の年をとったほうは、ひどくまじめな顔つきをしていました。これは悲しみでした。悲しみは、いつも自分一人で仕事に出かけます。そうしたほうが、うまく仕事が運ぶということを知っていたからです。
――アンデルセン「幸福の長靴」(大畑末吉)
悲しみが召使いを連れて歩くとは、現代の親子たちを見るようだ。親子関係の桎梏がやっかいなのは、それが目的化することでその外部性を失うことである。「新世紀エヴァソゲリオソ」がその地獄を描いていたし、古くは白樺派の一部がそうであった。親が長生きする時代になって社会全体がそうなってきている。親と社会とは両立できないというのがわたくしの感覚である。
現代の子供とは、老人の連れ合いであって、子供ではない。もう一回「赤い鳥」からやり直さないといけないきがする。ちょっと歳をとってくると、偉そうな口をきいて部下たちや若者を働かす者に童心がないことは明らかだが、ついでに心も失っている場合がある。野間宏の小説に屡々見られるように、物体からの引力で人の心なんか簡単に失われる。その力が権力でもコミュニケーション能力(笑)でも同じだ。窮余の策に過ぎない慣習の積み重ねだけで誰もが納得するわけではないのが分からない馬鹿がいるのはなぜであろうか。おそらく「赤い鳥」の地点が失われたからである。理屈をいうときにこそみずからの正当性がなく、その実、ルサンチマンのはけ口ととしての弱い者いじめとしての理屈しか行わない変態がいない、――そういう地点である。