★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

捕物帖とハイウェイ

2019-06-26 23:51:35 | 漫画など


石ノ森章太郎の『佐竹と市捕物控』は、傑作として知られているが、読んだことがなかったのでこの前「闇の片足」という短篇が入っている本を読んでみた。流れるようなカメラワークですごかった。

わたくし自身は、あまり時代物を好まない。そこにあるナルシシズムが何かを納得するまでは心置きなく楽しめない気がする。鷗外の作品にすら感じるそれは何だろう。芥川龍之介はそこを許さず、時代小説から保吉ものに至るプロセスで――一生をかけて問題を近代に戻そうとしていたのではないかと思う。

「蒲団」以来、どことなく隠語的にものを語る現代小説に対して、確かに作家たちは時代物では生き生きとしている面がある。これはどういうことであろう?「蒲団」が抑圧していたのは、我々の内面そのものなのだ。思うに、佐竹や市といった、秘密警察的なもの(でも半数は案外大概公務員)が我々の内面の役割をしており、現代では、ウルトラマンとか仮面ライダーでない限りはそれが許されないというのはあるであろう。芥川龍之介は古典の世界を使って執筆する自らにそういう内省を仕掛けていたのだろうと思う。「羅生門」上の内省はそういうものではあるまいか。

芥川龍之介の見たものは、想像以上に動物みたいな我々の姿であった。それを人間と見るためには、世の中を見方を変えれば変わる影のようにみることが必要に思われた。

トム・ハーディでがでていた『Locke』(オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分)は、極めて知的な作品であった。自分を捨てた父親を反復しまいとして、浮気相手の出産に立ち会おうと、仕事と家庭をほっぽり出して高速道路を走る男が、車中でいろいろと電話するそれだけの話であるが、話がでかい。棄て子を行った父親の反復が問題になっているから、どう見ても「オイディプス」の話で、反復を避けようとしても、結局男は父親を反復してしまうのであった。彼は仕事の上でかなり有能な男で、次の日に迫った仕事を放り出して会社から首を宣告されるが、代わりの人間が来る前に、車の中からちゃんと部下に仕事の指示を送り、段取りをなんとかしてしまう。裏切ってしまった妻やこどもたちへの対応も合理的にやりおえて、もとの日常に帰れるはずである。心理的に不安定な浮気相手を説得し帝王切開を認めさせる。しかし、

――結局、妻は彼の一回の過ちを許さない。そうすると、彼は子どもたちを事実上棄てたことになり、現場を放り出し次の人間の仕事を妨害した彼を会社の上層部は想像以上に激怒している事態に直面する。全てが崩壊する。結局、浮気相手は無事に出産。これは希望でも僥倖でもない、しかし、父親の反復であるから不条理でもないが……。我々は自分の意思で人生を生きているつもりであるが、そうではない。しかし、全てが滅茶苦茶ではなく、きちんと自分の行動に原因がある。ただ、それを認識しながら生きることはできない。この映画は、その困難を知っている者がつくっている。作品のなかに少し規則正しくあらわれては消えるハイウェイのライトの描写はそんなことを思わせた。

石ノ森の作品は、闇が多いが、わりと人生は明瞭のように思われた。これが我々の労働の世界である。闇の中からぴょこっと人生が出る。