★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

授業はいつも最高密度の犬どもだ

2019-06-10 23:55:23 | 文学


犬どもはううとうなってしばらく室の中をくるくる廻っていましたが、また一声
「わん。」と高く吠えて、いきなり次の扉に飛びつきました。戸はがたりとひらき、犬どもは吸い込まれるように飛んで行きました。


――「注文の多い料理店」


宮澤賢治の作品は、全体としてあまり整った意味を取り出そうとするとさて入信でもするかという気にもなるわけであるが、文脈を無視して引用するとすごく寓話的である。

上の場面なんか、まさに世の「犬ども」の行動様式であって、アクティブラーニングでくるくる回っていたとおもったら、ICTとかに吸い込まれていくのであった。自主的に吸い込まれていく様がすばらしい。かく言うわたくしも、全学共通科目ではアクティブラーニングならぬレポートの回し読み雑談なんかをやってみたわけであり、――わたくしみたいな犬は、常にバスに乗り遅れるのを信条としているのである。敗戦後に、ハワイを爆撃するような感じである。わたくしの如き遅刻魔によって――かくして物事の本質が露呈するのであった。

思うに、――というか、やらないうちから思っていたが、グループワークとかなんちゃらは、教員の見識の高さと発問の工夫がかなり巧妙でない限り、大概の場合は、「集団行動の練習」をやっているに過ぎない。本当はそんなことは数十年前に教育界では実証済みのはずである。つまり失敗の可能性が高いからこそ、その導入の本当の狙いは「集団行動の練習」であったとわたくしは見ている訳である。狙いは、学校を全体として集団行動の場にしてしまうことである。学校というのはもともとそういう要素は濃厚なわけだから、最後のひとおし――教員の知の一方的な発露の禁止がなされれば良いわけであった。あとは、お手お座りなどの指示を聞く場所になるであろう。主体性みたいな言葉に目をくらまされなければ、目の前で展開しているのが何なのか分かるはず……

分からん場合もあるけれど……

わたくしなんか、藤村の霊とかミューズの指令とかで文学に執着している。決して主体的ではない。――いや、これを主体的というのである。ただ、わたくしは、犬にもまともな嗅覚と知性が必要だと言っているだけなんで。もっとも犬は犬なので、大概は、「マヤの一生」の犬みたいなことになってしまうのであろうが……。

(どこから犬はきたか
その痩せた犬は
どこへ走り去ったか
われわれの時代の犬は)
(いかなる暗黒がおまえを追うか
いかなる欲望がおまえを走らせるか)


――田村隆一「幻を見る人」