★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

見たてまつるわが顔にも移り来る

2019-06-17 23:34:22 | 文学


気高くきよらに、さとにほふ心地して、 春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す。


ここの描写はむしろ平凡と言うべきだと思うが、

あぢきなく、見たてまつるわが顔にも移り来るやうに、愛敬はにほひ散りて、またなくめづらしき人の御さまなり。

ここがいい。紫の上というのは、樺桜の咲き乱れる様が、どうしようもないほどに、見ているこちらの顔にも降り移ってきそうな程に、愛嬌が匂い散っている。のぞき見ているこちらがまさに心が動かされ(――どこかに心が行ってしまう)という感じである。控えめに言っても、確かに、美女というのはこちらまで何かが移ってきそうなのであって、恥ずかしくなるものである。普通こうなると「すみません、わたくし普通の人で申し訳ございません」となるのが普通の男なのであるが、さすが夕霧、親父の血を受け継いでいる。そして親父はそのことにも敏感であった。

御簾の吹き上げらるるを、人びと押へて、 いかにしたるにかあらむ、うち笑ひたまへる、いといみじく見ゆ。

このあとに「御簾の吹き上げらるる」というのも、夕霧の心の勢いを示しているようで面白いが、その遠くに行ってしまいそうな心の動きを押しとどめるように「いといみじく見」ようと頑張る夕霧であった。

そういえば、1942年の『アランビアンナイト』という映画の中で、瀕死の重傷を負った王子が、シェヘラザードを見て息も絶え絶え「確かに美女だな」とかなんとか言う場面があるが、本当にこういうことが起こるのであろうか。何か、生命に対するセンスの違いみたいなものを、この映画からは感じる。

いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを


なにか、本当に切羽詰まっていはいないような気がしてならないが、曲調のせいかもしれない。