★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

水棲人と自転車

2019-06-25 22:34:46 | 漫画など


星野之宣の『ブルーシティ』の水棲人は、「第四間氷期」のそれに比べてガーゴイルのような容貌をしている。「マンガ夜話」で岡田斗司夫が言っていたが、SFには根本的に選民思想的なものがあるということだ。確かにそうかもしれない。安部公房のそれが選民思想への批判を意図しているかぎり、水棲人は悪魔のような感じにはなりえなかっただろう。わたくしは、安部真知の挿画にだまされているのかもしれないが。――しかし、まあそのSF的なるものは、結局は近代的?な「制度」の延長である。

安部公房には、なにか、おぞましさからの逃走があるような気がしてならない。それは、優しさにもなるし、変形譚への道をたどることにもなる。

映画「自転車で行こう」はとても良く出来ている映画である。登場人物の知的障害者の乗る自転車は、彼の能力を少しだけ余分に力づける。我々は、近代的モラルや生活習慣をある種のSF的呪文として用いていることがあきらかだ。我々が社会的な人間になるために実装するそれらは、自らが出来ることを他人も出来るような想定を自明とすることであり、スイッチで電気がつくであろう、ロケットが月に着くであろう、ロケットが怪獣を爆発させるだろう――といったことと似ている。そんな世界では、障がい者はなかったことにされてしまう。

だからこの映画はせいぜいわれわれが自分の力を行使できる本当の範囲を「自転車で行」けるものに狭めている。近代では、文学にしても科学にしても、あまりにも巨大なものに対決して操作できるかのような錯覚に陥らせる。それはそれで人間のなすことではあったが、錯覚は錯覚である。だからといって錯覚をただせるというのも錯覚なのであろうが……。

教員の仕事は大変だ……