★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ロマン的加速主義

2019-06-20 23:20:21 | 文学


今日は、講義で加速主義とロマン主義の話をする。啓蒙主義が形式主義的になり、その形式を用いた浪漫主義が啓蒙への反発として起こることの繰り返しが近代社会の歴史である、というのは、わたくしが高校一年生の時に、偉そうに友に語ったご高説であるが、今日の説明もあまり変わってなくて絶望した。

変わったのは、フルトヴェングラーやミンシュの具体的な演奏の「加速」例を紹介することが思いつきで出来たことぐらいである。

ところで、最近、風邪であまり声が出なくなった状態で、《ヘリウム史郎》の如き教師になっておったのであるが、――そのテンションで、所謂「PDCAサイクル」を、加速主義ですらないユープケッチャ的糞虫として説明し、声がでないので、「資本主義を死ぬまでぐるぐる回すぜ」と腕をぐるんぐるん教壇で回していたのであるが、下の動画では、チェリビダッケが「ローマの松」のクライマックスで、両腕をぐるぐる回しているのが印象的である。(今日はついにヘリウム史郎からは脱却したので、つい「PDCAサイクル」とか言っているやつは大概馬鹿、とパフォーマティブな言語を放棄して堕落してしまった。反省である

Celibidache Ottorino Respighi Pini di Roma


まさに谷川俊太郎の言うように、「かっこよすぎるカラヤン」のおかげで、クラシックの世界も消費活動の一環に吸収されてしまったが、本来は、こんなぐるんぐるんな感じの芸術だったのである。

加速主義の連中は、まあ勝手に妄想の上で加速してりゃいいのであろう。それはチェリビダッケの指揮よりは簡単だし――、のみならず、まずはハノンを速く弾くのは唯の庶民には非常に大変なことだ。