★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

海上の道と近代

2019-06-01 23:59:17 | 思想


わたくし自身は、どちらかというと動かない方である。とはいっても、長野愛知山梨茨城香川、と移動してきているからそうでもなさそうである。動かないのは、日常生活に於いてで、机と図書館と研究室、ときどき教室、の間を動いているだけである。交友関係も限られたもんで、多様なつきあいは苦手――というより、なれなれしい人間が嫌いなので避けている。――自意識は確実にそうだが、実際は、「ご無沙汰しております」みたいなせりふは案外自然にでてくる時がある。いままで結構多くの葬式に参列し、弔辞もこの歳にしては多くやっている。行く意思があって行ってるのだから当然だが、葬式みたいなものに特別に拒否反応があるわけではない。わたくしの経験では、案外冠婚葬祭で失礼な態度をとったりしている人のなかに、人間を軽蔑しているようなタイプがいて、職場でも悪さをしていることがある。学校における儀式というのはどうも冠婚葬祭とは違ったもので、わたくしが忌み嫌っているのはそれである。

よくわからんが、我々はなにか不自然な社会に生きているような気がする。最近、「居場所作り」みたいなゴミ屑みたいなイデオロギーが跋扈しているが、案外バカにしたものでもないかもしれない。このイデオロギーがゴミ屑なのは、結局本人が望んでもいないようなところに収監することが目的であることが多いのと、あと自分を褒めて欲しい赤ちゃんみたいな人間がだだをこねている場合が多いからであるが――、もっと本質的に、我々の社会が不自然だから、それぞれの人間の居場所がおかしくなっている可能性はある。

だからといって、海外に行きたがるタイプに対しては、この前『朝日新聞』で紹介されていた「偏見を得ようとするなら、旅行するにしくはない」(伊丹十三)といえば済む。我々の世界は、部屋に籠もっていたとしても全く複雑なわけであるが、外部にたって相対化してみると案外気が楽になる――そのことで、認識に単純化による歪みが発生するというのは、卒論を一生懸命やった人間なら知っている。作家論や文学史より作品論が難しいと言われたりする所以でもある。しかし、このような現象も、もともと部屋に籠もっていてもいっこうに頭が働き始めないタイプの、教室に閉じ込められたルサンチマンが、何か過剰さを持ちすぎている為に起こっているのかもしれない。

柄谷行人が『図書』に「海上の道」というのを三年前に書いていた。柳田國男の「海上の道」の紹介みたいな文章である。そこで、木曽などの信州が平地よりも早くから開けていた理由(本当かしらないが)を、海とつながっている川――「海上の道」のもたらした海民と山の民の同一性に求めている。山の民は一種の海の民であって、田や畑に土着する民とは異なるというのだ。わたくしの先祖はめんぱ職人らしいが、こういう職人のコミュニティがどういうものだったのか興味がある。ただし、わたくしは、あまりこういう議論にロマンを感じないことは確かだ。わたくしは、林芙美子の「私は宿命的に放浪者である」(「放浪記」)よりも、森鷗外の「僕は生れながらの傍観者である。」(「百物語」)に率直さを覚える。

この前、東浩紀氏が満州かどこかに行って、旅行記みたいな新しい批評のスタイルをつくりたいと言っていたが、日本文学の伝統から言っても、インテリにとって旅は文学の発生するところであった。

今日は、千葉雅也氏の書いた『アメリカ紀行』というのを読んだ。千葉氏はかつて自分のスタイルを俳句などと結びつけることがあったが、これは千葉氏なりの『奥の細道』なのである。千葉氏は哲学者なので、『奥の細道』のようなスタイルに哲学は可能なのか考えているのだと思う。それは、森敦と似ている態度であるが、森氏が非常に自信に溢れていたのに対し、確信的な態度ではない。もっとも、この態度が最後の「おもてなし」は「天皇」だ、日本人の儀礼と偶発的なキレは裏腹だ、という鋭い指摘に繋がっている。千葉氏のような人は、鷗外の「傍観者」的なものを重視するしかない。「傍観者」とは自分の居場所など創らない、引き裂かれる態度である。

そうやって、伊藤整の『近代日本人の発想の諸形式』などを眺めてみると、おおくの日本人の認識の型は、伊藤氏の段階に達していて、それゆえ苦悩もしているのだと思った。伊藤氏曰く、「調和型・上昇型・下降型・逃避型・立身出世型」。この類型を頭に描いていることは不自然だ。わたくしは、伊藤氏の「生物祭」でのいらいらを思い出す。

春は私にとって異邦人の祭典にすぎない。それは隠微な、好色な、極彩色の、だらけた、動物や植物や人間どもの歓楽だ。

神田明神を訪ねる(東京の神社6)

2019-06-01 07:57:03 | 神社仏閣


つくばエクスプレスは秋葉原に通じている。秋葉原で巨体にはでなプリントTシャツを貼り付けたお兄さんやお姉さんたちにもまれながら、神田明神に行き着く。



巨体

 

なんだこれ。これたぶん狛犬だよね……。ただの巨大番犬ではないか。



広重の『東京名所図会』でも出てくるところですね。

主神がえびす・だいこく・まさかどであり、まさに明神イイネとしかいいようがない。



虚実はもはや関係ない。銭形平次の碑まであります。



風★杜夫が金を投げていると、銀ちゃんがあれしているようで、銅銭だからまあいいかという……