★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

最終的に終わった(全てに傍点)

2019-06-28 23:14:33 | 思想


福冨正美氏の『共同体論争と所有の原理』という本のあとがきをたまたま読んで、氏が55年以前の、氏の言う「火炎びんおよび山村工作隊に象徴される」学生運動に関わっていたことを知ったが、その書きぶりはかなり悲しげである。この書がでたのは1970年であり、どちらかといえば、例の68年祭りの中で出版された本と言えるのだが、あとがきを見る限りでは、氏は55年、つまり六全協の挫折から立ち直っていない。共産党が武装路線から降りた六全協の55年は、「太陽の季節」の年でもあって、氏は、この小説について、

なんともいえないにがにがしい異和感(この異和感は一種のストイシズムとかさなりながら、わたしをながいあいだ支配してきた)をいだきながら、一つの時代が終わったことを思い知らされたのであった。

と述べている。わたくしは、「一つの時代が終わった」という風な言い方にはずっと反発を感じていて、それを言う人間も信用していないが、この場合はなんとなく不明瞭な福冨氏の言いように共感した。福冨氏はこのあと、

高度成長の開始と、ソ連邦共産党第二〇回大会におけるスターリン批判の衝撃とは、わたしたちの青春をとらえてきた学問体系が無残にも眼前で崩壊していくのを促進した。


という言い方をしている。まるで他人事になりそうな言い方であるように思うが、――要するに、学生運動の挫折以来、氏にとって世の中は影絵のように動いていっているだけなのであった。わたくしは、高校時代に、六全協をふくむ事態に巻き込まれた学生たちを描いた柴田翔の芥川賞受賞作を読んだとき、なんとも悲劇的なポーズが酷いと思ったものであるが、――かんがえてみると、わたくしは、68年挫折組と彼らを混同していたのである。無理もない、わたくしは、71年、「明治公園爆弾事件」の数日後に生まれたので……。福冨氏は高橋和巳の「憂鬱なる党派」に自分の青春を見ている。このぐらいの感傷は許されそうである。最近、叢生する68年論の「青春を懐かしむ」風に疑念が膨らむばかりであったので。福冨氏の、自分たちの時代が「最終的に終わった」(全てに傍点)と歎く感情の方が理解できる。

確かに、時代は常に終わってもいないし、運動は消えてもいないのであろう。総括すりゃいいってもんでもないのは、総括であんな事件が起こればそれ自体を反省するのもわかるのであるが、厳しい総括が必要なのは自明なのだ。

福冨氏の場合、既に終わった、という風な感情を抱きながらのその後をこの本で総括している。しかし、世の中に多いのは、終わった後の40年ぐらいの総括抜きに、40年前の話をしはじめる体裁である。あのとき何をしたのかは、そのあと何をしたのかによって裁かれるべきである。わたくしもこのことを良く覚えておきたいと思うのであった。