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「何か、そは、ことことしく思ひたまひて交らひはべらばこそ、所狭からめ。大御大壺取りにも、仕うまつりなむ」
近江の君というのは漫画やドラマなどでも道化みたいに描かれているが、道化というのはなにか差別的なニュアンスがあり、ちゃんと一性格者として扱うべきである――。それはともかく、彼女の親曰く、
「似つかはしからぬ役ななり。かくたまさかに会へる親の孝せむの心あらば、このもののたまふ声を、すこしのどめて聞かせたまへ。さらば、命も延びなむかし」
命が延びるわけないだろうがっ
「舌の本性にこそははべらめ。幼くはべりし時だに、故母の常に苦しがり教へはべりし。 妙法寺の別当大徳の、産屋にはべりける、 あえものとなむ嘆きはべりたうびし」
早口なのは産屋にいた坊さんの口調が移ってしまったというのである。そんな馬鹿なと思っていると、オヤジが
「その、気近く入り立ちたりけむ大徳こそは、あぢきなかりけれ。ただその罪の報いななり。 唖、言吃とぞ、大乗誹りたる罪にも、数へたるかし」
と言っているわけであるが、こちらの説の方がとんでもないではないか。考えてみると、親父が娘の育ち方を自分のせいにしていないところは安心する。最近なんか、教育テレビをみていても、親たちは自分の教育で子どもがどうにかなってしまったとそれだけで憂鬱になっており、そんな姿を見せられていては親と子の因果を必要以上に我々はすり込まれてしまう。
いまの天皇は実の親に育てられている。それまではそうではなかったようだ。帝王たることには、その親が彼の責任を負わないということもまでも含まれているのではあるまいか。それが吉と出るかはわからないけれども、王の孤独よる栄光はそうやって作られていたのではないか。我々の生に栄光がないのは、親子関係の絶対性にも拠るのである。吉本隆明がキリストを引き合いにして論じていたことは、彼の想定を超えて桎梏と化している。
昔も今も、因果をあまり意識しすぎても滑稽なだけである。上の親子の会話のように……。暴力は、《物事をいい加減に出来ない粗雑さ》から来ることが確かのようにわたくしには思われるのであった。