★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

裏返った世界

2019-06-23 22:39:16 | 文学


2010年の映画「ノルウェイの森」は、確か内田樹も言っていたように思うが、松山ケンイチがぼそぼそ呟きながら声がうらがえって、もう少しでヘリウム史郎になりかけるところなど、原作から出てくる「裏返った」感じが良く出ているように思う。松山ケンイチが演じているのは無論「ワタナベくん」なのだ。高校の時に、この小説を読んだわたくし渡邊がどれだけ精神的傷を負ったか、村上春樹は知るまい。

村上龍の世界が、現実に油絵の絵の具をぬりたくったかんじだとすれば、村上春樹のそれは、現実を反転させて「裏返った」世界である。現実とは違うが、確かに似ている。感情は似たようなのがあるが、原因や結果が違う。この小説は、キズキという親友が自殺して、その恋人(直子)と大学生になったワタナベ君がついベッドインしてしまい、なんだかんだあってワタナベ君は同じ大学の綠とも恋愛関係になり、なんだかんだで直子は自殺……といった話である。つまりやたらベッドインや性のことが語られているが、これは現実では違うことを指し示していると見た方が良いように思う。

この映画で描かれていたように、その「裏返った」世界とは、学生運動の雑踏や寒山で生じる熱っぽい柔らかな恐怖みたいなもので、大学生が下宿でみているロマンとは又違ったものである。しかし、村上は、それを大学生のロマンのように描いている。

「はあ、来るな」と思っているとえたいの知れない気持が起こって来る。――これはこの頃眠れない夜のお極りのコースであった。
 変な気持は、電燈を消し眼をつぶっている彼の眼の前へ、物が盛んに運動する気配を感じさせた。厖大なものの気配が見るうちに裏返って微塵ほどになる。確かどこかで触ったことのあるような、口へ含んだことのあるような運動である。廻転機のように絶えず廻っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるような気持にすぐそれが捲き込まれてしまう。本などを読んでいると時とすると字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持にすこし似ている。ひどくなると一種の恐怖さえ伴って来て眼を閉いではいられなくなる。


――梶井基次郎「城のある町にて」


村上春樹に比べると梶井基次郎の方が、ユーモアがあるように思う。村上春樹は健康なのだ。健康だと、近代文学が超克しようともがいていた部分さえマラソンのように持続させることが出来るのだ。病気も健康的に持続できる。これは確かに日本の社会を鋭く描いていると言えないことはないと思う。