★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

怪獣遊びは誰のものか

2019-06-04 23:16:58 | 映画


最近は、ハリウッドでもマーベルコミックスなどが盛んに映画化されていて、たぶんそれでないと回収できないと思われているためであろうか。バットマン、アイアンマンとかなんとかが、結構難しい内容を扱っているようでもある。

「パンズラビリンス」でファシズムを衝撃的に描いていたギレルモ・デル・トロが、「パシフィック・リム」を撮って「ロケットパンチ」(←吹き替え)とかやっているときには、ありゃと思ったが、やっぱり本気で撮っているとしか思えないのでわたくしは反省した。

そういえば、ティム・バートンが「マーズ・アタック」でアイロニーを飛ばしているうちは面白い感じがしたが、「猿の惑星」を撮ったときにはちょっとびっくりしたのを覚えている。蓮實重彦もどこかで言っていたが、それは非常に心理描写的なところに力点があって、まるで純文学じみているのであった。わたくしは、あとのリメイク三部作よりも、これの方が好きだ。なぜかというに、リメイク三部作は、せっかく素材が「猿」という非人間的なすばらしいものなのに、親子の絆みたいなテーマを扱っているからである。なぜ、猿という事柄に集中しないのだ。

そういう意味でいうと、今日観た「ゴジラキングオプモンスターズ」は、「ゴジラ対ヘドラ」のテーマを「三大怪獣 地球最大の決戦」の物語に当てはめたような物語であるということを除外すると、最初から最後まで怪獣がプロレスをやっているだけの映画だったのでよかったが、人間たちはなぜか家出した子や親父、ノイローゼになった母親を助けるみたいなドラマを展開していた。監督がやりたいのは、ひたすら日本のゴジラシリーズの模倣、いや「ごっこ遊び」なので、たぶん適当に「家族の絆だしとけ」みたいな感じなのであろう。

しかしまあ、「ごっこ遊び」というのは、やはり子どもの所業である。子どもは親の庇護下で遊ぶので、親からの絆光線を受け止めつつ遊ばなければならない。で、その影響は遊びの中にも侵入する。わたくしなんかは、いい子ちゃんであったから、ロボットや怪獣で遊びつつ、おままごとみたいな遊びに対する誘惑を感じていた。なにかそれは親じめてみる、親の期待に応えるという欲望とつながっていた気がする。2014年のゴジラ映画でもそうだったが、なんと怪獣のなかでの夫婦愛が描かれている。今回も、ゴジラとモスラがカップルである可能性を論じる変態的場面があったが、すごいことである。ごっこ遊びをしながらもう大人の営みのことを考えてしまっている。いや、監督はもう大人であった。

しかし、これは本質的に一連のハリウッド映画での家族の絆とはほとんど夫婦愛の回復を意味していて、子どもと仲良くすることでは必ずしもない、ということを意味しているのかもしれない。にもかかわらず、子どもとの紐帯を確保しようとすれば、――案外、「子ども向けみたいな素材の映画」は、はじめから作り手に心理的な安定感をもたらしているのかもしれないし、むろんそれは観客に於いてもいえることだ。

一方、日本のゴジラときたら、なんと相手もいないのに「ゴジラの息子」がいるというていたらく。あの形状からすると、ゴジラはたぶん人間の女子と結婚している。そうでなければ、かかるおじさん顔の怪獣は生まれない。その関係は、親父が息子を鍛える式のものであった。(ような気がする)ここに母親がいなかったのはなんとなく象徴的である。我々はまだ、子どもの世界を夫婦の問題として扱う勇気がないのであった。しかし、夫婦の問題と無関係な子どもの世界が純粋に存在するわけがないではないか。

だがしかし、わたくしは、最近のハリウッドの特撮が、晴れ渡った空のもとでの戦闘でなく、暗雲垂れ込めている地獄の様相における戦闘ばかりを描いているのが気になる。あまりにも家庭内と同じく地獄に過ぎるのではあるまいか。それに、怪獣ごっこの常なのだろうが、怪獣に接近する演出が多すぎる。よくわからんが、ほとんど遠近法が崩壊しているみたいな錯覚に陥る(上の「猿の惑星」もそう思った)。これでは何をやっているのかわからない。ほとんど夫婦げんかではないか。

日本の場合は、「シンゴジラ」でさえそうであったが、特撮はパノラマなのである。ゴジラの向こうには富士山があって、どこからかラドンやキングギドラが飛んでくる。これが日本の「風流」の世界である。モスラはお蚕様であり、富と美をもたらす。子どもの観客は、そんな想像的天国で遊ぶ。かくして、日本のオタクたちが非常に「風景」好きであることは自明の理となり、そこに人間の存在を入れたがらない。

怪獣遊びは誰のものか。今日は、そんなことを思った次第であった。

追記)結局、今回の映画、映画そのものよりも最初の予告編(ドビッシーの「月の光」をつかっているやつ)が一番出来がいいのでは……。あと、核の問題ではあいかわらずハリウッドは狂ってる。まあ、ゴジラを水爆の比喩からただの怪獣王としてぬいぐるみ化したのはもともと日本であって、そうやって環境問題や戦争犯罪の問題を象徴させてきたのだが、それが問題そのものの困難からの逃避に過ぎなかったことは、アメリカ側からはよく分からないに違いない。